恐怖なく穢れない人 生存の欲を捨て去り最後の身体

ダンマパダ 351、352

悟りの境地に達して恐怖がなく
渇愛から離れて穢れのない人は
生存の矢を断ち切った
その身体は最後のものである

渇愛を離れ執着がなく
経典の語義を熟知して
文字の配列や
前後関係知る人
彼は最終身体の人
大智慧者、偉大な人と呼ばれる



○この詩から学ぶこと

 恐怖のない人はどんな人でしょうか? その前に、恐れる人はどんな人でしょうか? ほとんどの人は恐れを持っていると思います。恐れという言葉が適当でなけれが、不安、心配はほとんどの人は持っているのではないでしょうか。これらを恐れと言っていいでしょう。恐れている人は何かを守っているのです。そしてそれが壊れるのを恐れているのです。守っている最大のものは自分の生存でしょう。次は自分の大切なものを守っているのです。それは自分が執着しているものなのです。

 恐怖がない人は守るものがない人です。執着のない人です。そして自分の生存の欲すらない人なのです。このような人は悟りの境地に達した人であり、生存欲がないのですから、この世で生命が終わったら、次の世でも生きたいという欲がなにのですから、生まれ変わることがなく、輪廻しないのです。ですから、この世の身体は最後の身体ということになるのです。

 穢れとは、心の汚れです。心の汚れは欲と怒りと無知なのです。渇愛から欲と執着が生まれます。欲が邪魔されると怒りが生まれます。これらの経過をたどるのは無知だからです。無知の反対の智慧があれば、執着は生まれません。怒りも生まれません。智慧がなければ、渇愛から離れられませんが、智慧により渇愛から離れれば、穢れがなくなります。この人は悟りの境地に達した人であり、輪廻から脱した人なのです。

 二番目の詩の一行目は、上で説明しましたように、渇愛を離れるためには智慧が必要なのです。
この智慧を開発するためには、経典を学ぶことが必要なのです。この関係は相互作用で、経典の語義を熟知するためには、渇愛を離れ執着をなくすことが必要なのです。特に自分の見解に対する執着があると経典を正しく理解できないのです。

 また経典については、暗記しているだけでは意味がないのです。言葉の配置や前後関係を理解しない人を、釈尊は森の中の盲目の象のようあちらの木にぶつかり、こちらの木にぶつかり前に進めない人だと仰っています。経典を正しく学ぶことによって、智慧を開発することができるのです。智慧を開発して渇愛と執着をなくし、経典も深く理解できるようになります。そしてその結果、悟った人は輪廻から脱します。そして最終身体の人、大智慧者、偉大な人になるのです。

○恐怖なく穢れない人 生存の欲を捨て去り最後の身体 (351)
○執着を離れて経典の意味熟知して大智慧者なり (352)


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~  

この記事へのコメント

2008年10月24日 08:11
ワンギーサさん、おはようございます。今日はまたきつい内容でした。生存欲をなくす…想像もつきません。又、経典の勉強として、冥想実践が必要なのでしょう。有難うございました。
ワンギーサ
2008年10月24日 09:22
新様。おはようございます。そうですね、きつい内容かもしれませんね。ただ、生存欲をなくそうとするのではないのです。なくなるのです。ですから本人はそれほどでもないのです、自然なのです。別に、死にたいと思っているわけでもないのです。あふれるような慈悲の気持ちがありますから、憐れみから困っている人は自然に助けるということになるのです。
さて、経典の勉強には冥想の実践が必要です。これらは修行の両輪です。その時生存欲をなくそうなどとは思わない方がよいのです。それは修行の結果です。
「止まることなく、求めることなく」修行を続ければいいのです。その過程にはこの上ない喜びや楽しみもあるのです。求めなければ。
2008年10月24日 09:30
ワンギーサさん、大変大事なご指導有難うございました。油断せずに『求めない』ことに注意したいと思います。有難うございました。
ホーシノヒトリゴト
2008年10月24日 11:14
ワンギーサさん、今朝もありがとうございます。「恐れ」とは何かを「守りたい」という心の働きとのことよく分かりました。「穢れ」は「心の汚れ」であり、「欲・怒り・無明」から生まれるものであるということを初めて知りました。そして無明を無くすための智慧の開発は困難なことですがブッダの教えやワンギーサさんのブログを勉強しながら努力したいと思っています。今日もありがとうございました。
身の丈修行者
2015年02月17日 12:16
パーリ語を学んでみたい気持ちはありますが、現在全く・・で、私には日本語で解説下さる方の存在が不可欠です。
自分の中で優先順位?を考えた時に、日本語で教えて頂く事と・冥想の実践に、限られている時間を使おうと決めて身の丈で実行しています。
落ち着くという事があるのか分かりませんが、その後パーリ語を学ばせて頂けたら良いなと心温めています。
ワンギーサ長老の分かり易い解説「経典・・言葉の配置や前後関係を理解しない人を、釈尊は森の中の盲目の象のようあちらの木にぶつかり・・前に進めない人だと仰っています」とても心に響きました。
経典を正しく教えて下さる師匠に今後も学ばせて頂きたいです。

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