田の草のような貪欲のない人に 施しすれば果報は大きい

ダンマパダ 356~359


田畑に雑草があるように
人々には貪欲という欠点がある
それ故に貪欲のない人に布施すれば
大きな果報がある

田畑に雑草があるように
人々には怒りという欠点がある
それ故に怒りのない人に布施すれば
大きな果報がある

田畑に雑草があるように
人々には愚鈍という欠点がある
それ故に愚鈍のない人に布施すれば
大きな果報がある


田畑に雑草があるように
人々には欲求という欠点がある
それ故に欲求のない人に布施すれば
大きな果報がある



○この詩から学ぶこと

 上の四つの詩のそれぞれのキーワードは「貪欲」「怒り」「愚鈍」「欲求」です。ほぼ同じ詩ですが、キーワードだけが異なるのです。釈尊の説法にはよくあることです。現代人は上滑りの文化の中にいますから、このような形式になじまないかのしれませんが、古典文学にはよくある手法です。しかし、釈尊の場合には古典文学の手法だから使っているのではないのです。釈尊は心を知り尽くしていますから、このように説法するのです。心は未知の事柄を同時には多数理解できないのです。一時に一つを把握するのです。このことはヴィパッサナー冥想で分かるようになります。同時に多くのものを理解しているように見えても、それは心の知るスピードが速いからそのように感じられるのです。

 同じ形式の話の中で、言葉が一つずつ変わっていると、理解が深まって最後に納得がいくということになるのです。なぜそうなるかは、心は一時に一つしか理解できないということの他に、一人ひとりが言葉を主観的に理解しているということがあります。ですから、人により納得できる言葉がちがうのです。「貪欲」「怒り」「愚鈍」「欲求」のどの言葉でよく理解できるかは人によりちがうのです。ですから、本当に理解してもらうためにはいろいろな言葉で説明する必要があるのです。これは釈尊の説得技術の一つです。

 先ず「貪欲」をキーワードにした詩について説明します。この詩の意味は少し、農業についての説明が必要です。雑草がたくさん生えている畑と、雑草が抜かれて雑草の無い畑に、同じように作物の種をまいたとき、どちらの畑の方が作物の収穫は多いでしょうか。一応雑草以外の条件は同じであると考えてください。当然、雑草のない畑からの方が収穫が多いと考えられます。

 同じように、貪欲という欠点のある人に布施するよりは、貪欲という欠点のない人に布施したほうが、果報が大きいと考えられます。

 同じように、怒りという欠点のある人に布施するよりは、怒りという欠点のない人に布施したほうが、果報が大きいと考えられます。

 同じように、愚鈍という欠点のある人に布施するよりは、愚鈍という欠点のない人に布施したほうが、果報が大きいと考えられます。

 同じように、欲求という欠点のある人に布施するよりは、欲求という欠点のない人に布施したほうが、果報が大きいと考えられます。

 最後に一言申し上げます。上のような欠点のない人に布施することは大きな果報があるということの、ほんとの意味は、来世によいところに生まれ変わるということではないのです。もちろんそのことを否定しませんが、自分がそのような人に布施をすることによって、自分の見解を正すことにあります。つまり、例えば、欲もなければ生きていけないとか、成功しないとかという見解を正すことにあるのです。はっきり、欲のない人にお布施をする方がよいと思うことです。そのことで欲のない人間になれるのです。欲も必要だと思っていては欲のない人間にはなれません。欠点のない人間になることが、真に幸福な人間になることであり、大きな果報であるのです。


田の草のような貪欲のない人に 施しすれば果報は大きい (356)
田の草のような怒りのない人に 施しすれば果報は大きい (357)
田の草のような愚鈍のない人に 施しすれば果報は大きい (358)
田の草のような欲求のない人に 施しすれば果報は大きい (359)


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~  

この記事へのコメント

2008年10月28日 08:00
ワンギーサさん、おはようございます。大きな果報についてとても分かりやすく解説して頂きました。でも、お布施は大小に関わらずやった方がよいのでしょうね。有難うございました。
ワンギーサ
2008年10月28日 12:36
新様。今日もコメントありがとうございます。もう一度、私の文章の「最後に一言申し上げます。」以降を読んで下さい。
2008年10月28日 18:06
ワンギーサさん、ご指導有難うございました。なるほど!「見解」なのですね。欲を肯定されたら、いくらその人らにお布施してもそのままなのですね。有難うございました。
2008年10月28日 19:21
ワンギーサさん、こんにちは。上記コメントに?が生じました。欲のある人にお布施をしても、必ずしもそのままとは限らないのではないか?という点です。道端で倒れている人を助けても、欲は働かないんじゃないかと思います。10年ほど前、ある人物と遭遇しました。彼が言うには「私は、絵を売り、そのカネを孤児施設に寄付している。欲の世界は下らない。生きる意味を見い出した」とのことでしたが、額面通り解釈すれば、「欲もあろう孤児たちにお布施して、欲から離れる喜びをえた」とも言えます。彼の主張の真偽について論じても仕方ないのですが、少なくとも欲のある人にお布施して、欲を無くする方向へ進む可能性は否定できないんじゃないかと思います。上記コメントでは否定してしまいました。有難うございました。
ワンギーサ
2008年10月28日 21:40
新様。困った人を助けるのは人間として当然のことです。この心は私たちが育てるべき慈悲喜捨の心の悲にあたります。悲の心は相手が欲があるかどうかは問題ではありません。困っているから助けるのです。
2008年10月29日 04:42
ワンギーサさん、ご返事有難うございます。ご指摘の通り、相手の欲の有無と悲の心とは無関係だと思います。ボランティアなども一例です。私が感じてるのは、そうしたことを通じてつまり広い意味での施しを通じて、欲の世界こそ正しいという見解に疑問を抱いていく方もかなりいらっしゃるということです。本題から外れたかもしれませんが、そもそも「欲のある人にお布施」って、政治家や大臣にワイロを渡したりするようなことなのでしょうか?この場合の「お布施」の意味によって、「欲の有無」の違いがより明らかになるんじゃないかとは思います。有難うございました。
身の丈修行者
2015年02月18日 13:07
ワンギーサ長老とても大切な事を教えて下さり有難うございます。下記の3点、自分の記憶の為この場を借りて大変恐縮ですがまとめさせて頂きます。
○心は未知の事柄を同時には多数理解できない・・一時に一つを把握する・・
○同じ形式の話の中で、言葉が一つずつ変わっていると、理解が深まって最後に納得がいくということになる・・心は一時に一つしか理解できない・・一人ひとりが言葉を主観的に理解している・・人により納得できる言葉がちがう・・
○欠点のない人に布施することは大きな果報があるということの、ほんとの意味は・・自分がそのような人に布施をすることによって、自分の見解を正すことにあります。つまり、例えば、欲もなければ生きていけないとか、成功しないとかという見解を正すことにあるのです・・
欲のない人にお布施をする・・そのことで欲のない人間になれるのです・・
欠点のない人間になることが、真に幸福な人間になることであり、大きな果報であるのです。
これらの事を智慧で理解できるようになりたいです。


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