心にも肉体にも我がものと思う心がない彼は比丘

ダンマパダ 367

心にも身体にも
私のものという思いがなく
その思いがなくとも憂いがない
その人は比丘と呼ばれる


○この詩から学ぶ

 何年か前に、「私とは何か?」とか「私探しの旅」とかいう言葉ははやったことがありました。なにを隠そう、この私もそれにはまっていたことがありました。この肉体が私なのか。肉体が私ではないとは考えたものの、一番大切にしていたものは自分の肉体でした。身体によい食べ物を探し、身体の健康のために運動したり、身体のために一所懸命でした。

 また同時に、自分の考え方に固執し、その考え方を否定されようものならば、自分が否定されたように、むきになって反論したりしていました。そうです、当時は自分の心も自分の身体も自分のもの、自分自身だと考えていたのです。

 ところが、何年かたち、当時大切に思っていた肉体はすべて変わっています。頭髪は剃髪する前に、ほとんどなくなり、眼鏡がなくともよく見えた眼は眼鏡がなくては見えなくなり、筋肉は衰え、力がなくなっています。私のものと考えていた肉体はどこに行ってしまったのでしょうか。

 私の考えも、ずいぶん変遷しました。あの頃、これが私の考えだと思ってた考えを思い出すと、そう考えていた自分が恥ずかしいのです。ずいぶん恥知らずな考え方をしていたものだと思います。結局、考えですら自分のものと言えるものはないのだと思えるし、そう思えば安心できるのです。

 心も身体もよくよく観察すると、流れる川のように流れ、変化し、これが私だといえるものはないことがわかります。世間的には自分のものがないということは寂しい、物足りない、情けないという感情があるように思います。

 しかし、実態はそのような固定したものはなく、だからこそ、安心できるのです。なぜならば固定していると考えていたものも、どこかに必ず欠点があり、その点が悩みの原因を作るからです。しかし、それは変化してしまうのですから、その時、ほっとするのです。

 釈尊は「心にも身体にも 私のものという思いがなく その思いがなくとも憂いがない その人は比丘と呼ばれる」と仰られるのです。

○心にも肉体にも我がものと思う心がない彼は比丘

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

この記事へのコメント

2008年11月06日 06:01
ワンギーサさん、おはようございます。これは実に切実な問題だと思いますが。やはり「思いがなくとも憂いがない」という点が決めて手だと思います。肉体にしても考えにしても単なる理屈では、=自分ではないことは明らかですが、心が反発してしまいます。そんな執着から完全に離れた時こそ、心の安らぎを感ずるのでしょうね。瞑想・冥想ですね。有難うございました。
ホーシノヒトリゴト
2008年11月06日 07:57
ワンギーサさん 今朝もお説教ありがとうございます。「初期仏教キーワード」(星飛雄馬著)p48・p150によれば、預流果に達すると10の「結」のうち、有身見・疑・戒禁取という3つの煩悩が消えるということです。以前ご指摘をいただきました「有身見」が私にはまだまだ消えません。ところで、感覚器官のある生命体のうち植物類には「有身見」はないと思えるのですが、人間を除く動物(猿など)には「心」はなく、「有身見」は無いのでしょうか? ご指導宜しくお願いします。 
ワンギーサ
2008年11月06日 09:10
ホーシノヒトリゴトさん。お会いした時、説明します。
身の丈修行者
2015年02月20日 12:50
以前自己啓発系に行っていた頃「自分探し」をしている方が少なからずいました。
その方から話を伺うと、現実逃避をしているとしか思えない時がありました。
また、そのような自分を探している方は外を探してばかりで、内(自分の心)を探す・観察するような姿勢はなかったと記憶しています。
自分を探す・・ような姿勢なうちは心が成長するような流れは得にくいのかもしれないですね。

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