修行者の智慧と定とは両足だ 両足あれば涅槃に行ける

ダンマパダ 372

智慧がない者には定はない
定がない者には智慧はない
定と智慧のある者は
涅槃の境地のすぐそばだ


○この詩から学ぶこと

 智慧と定の関係は、虫眼鏡で物を見る時のことを考えるとよく理解できると思います。虫眼鏡のレンズの焦点を見る対象にぴったりと合わせると、見る対象が拡大されて、しかもはっきり見ることができます。逆に虫眼鏡が固定されてなく、レンズの焦点が対象にぴったり合っていなければ、対象はぼやけていて、対象ははっきり見えません。

 すなわち、虫眼鏡のレンズの焦点が対象にぴったり合っている時が定がある時です。その時は対象ははっきり見える時であり、その時が智慧がある時です。また、レンズの焦点を対象に合わせるには、対象がぼやけて見える状態から、だんだんはっきり見える状態にレンズを動かすことが必要です。その時は智慧が必要です。智慧がなければレンズの焦点を合わすことが出来ないのです。真理をはっきり見るためには、智慧と定でレンズの焦点を真理に合わせるために、智慧と定が必要なのです。

 私たちは、外界からの刺激に対してすぐに反応しています。外界の刺激は絶えず変化し、多様です。そのため、意識を何かに集中することが困難です。それは定のない状態です。定のない状態で外界を認識することは、外界をぼやけた状態で認識しているわけでありますから、外界を正しく認識していないのです。誤知しているわけです。

 外界の刺激は、私たちの欲を刺激し、そのとりこにしたり、またある時はその刺激に反発して怒りが生まれます。そのような私たちの心をコントロールするためには、智慧が必要なのです。やはり正しい認識を得て、真理を把握するためには、定と智慧が必要なのです。

 以上がこの詩の前半のポイントですが、後半は定と智慧がある者は、涅槃のそばにいるということですが、まだ涅槃の境地には達していません。定と智慧のある人は真理をありのままに見ることが出来る人です。この人は、すべての現象が無常、苦、無我であることが見えた人です。ですが、まだ、この人は執着を捨てていません。しかし、この人はすべての執着の無意味さを理解して、すべての執着を捨てることになるのです。その時、この人は涅槃に達した人と言うのです。

○修行者の智慧と定とは両足だ 両足あれば涅槃に行ける

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

この記事へのコメント

2008年11月11日 05:53
ワンギーサさん、おはようございます。最初、レンズで見ようという対象が欲の対象だったら、いくら焦点をあわせても?と思いましたが、しかし、真理に焦点をあわせる、とあり納得しました。これにより定と智慧についての理解がより明確になりました。有難うございました。
2008年11月11日 11:55
ワンギーサさん、レンズの焦点距離は決っていて、各自が勝手に決めることはできません。だから、誰もが同じ方法で真理に近づくのでしょうね。有難うございました。
林田明大
2008年11月11日 23:16
 部外者ですが、偶にはと思い、コメントさせて頂いております。テーラワーダ仏教の教えを知るきっかけは、ワンギーサ様のこのブログでしたが、全面的ではありませんが、日ごとに既存の仏教との違いを思い知らされると当時に、不思議な話ですが、現在、中国武術・韓氏意拳を体験していることで、御テーラワーダ仏教の教えが、非常によく理解できております。共感といったほうがいいのかも知れません。そのことについては、私のブログに、本日触れさせて頂きました。書籍も少しづつですが、いくつか落手し、読み始めております。
 今行っている行為を感じていない、今を生きていない、という状況に気づくことは、かなり難しいのでは、と思っております(苦笑)。私は、韓氏意拳でその事実に気づきました、体感し、思い知らされましたが、その前提があったのも事実です。というのも、韓氏意拳を一度体験しても、価値がわからない人は、分からないのですから(笑)。頭優先の知識人には、無理ですね。
 今後も、誠に勝手ながら私の感じたことを、私のブログ上で披露させて頂くつもりです。御ブログ、毎日、楽しみに拝読させて頂いております。お心をご慈愛くださいませ。
ワンギーサ
2008年11月12日 07:29
林田明大先生、おはようございます。長文のコメントありがとうございます。このブログでは部外者はありません。なるべく多くの方々に読んでもらいたいと思っております。これからもコメントをお願いします。また、私のブログが縁の一つになって、テーラーワーダ仏教に興味をもって頂いたことを嬉しく思っております。
身の丈修行者
2015年03月01日 07:55
本文の内容とややずれるかもしれませんが、「知識の勉強」と「冥想実践」のバランス?のような事を思った事があります。
知識の勉強・・は本等も沢山ありますし媒体には困らないと思います。ですが色々な方の多くの知識に触れ混乱しかねないです。また学ぶ姿勢・量で満足する錯覚?にも陥りかねません。
冥想の実践はそうそう長く毎日出来ないと思います。それを続けるには精神・集中力が必要ですしまた、やり方の確認を適宜していかないと、ずれた様な結果になりかねません。
必要な知識を得て、そして効果的な冥想をするには、素晴らしい師とのご縁を大切にし、その師を中心にしてやっていくのが宜しいように感じています。

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