生きものに暴力振るわず殺さない殺させもしない彼はバラモン

ダンマパダ 405

動くものでも動かないものでも
生きものに対して暴力を振るわず
殺さず、殺させもしない人
彼を私はバラモンと呼ぶ


○この詩から学ぶこと

この詩と同様の内容のダンマパダの詩があります。8月23日に記載した270番の詩です。

生命を殺す故に
聖者になるのではない
一切の生命を殺さない
故に聖者と呼ばれる


http://76263383.at.webry.info/200808/article_23.html

 270番の詩の解説で、「なぜ一切の生命を殺さない故に聖者になれるのか。」について述べていますので是非参考にして下さい。ここではまた改めて、少し異なる視点からこの問題を考えて見ましょう。

 「動くものでも動かないものでも」とはすべての生きものを意味します。つまり生きとし生けるものに対して暴力を振るわないことです。暴力には肉体的な暴力もありますが、精神的な暴力もあります。それらの暴力をすべての生きものに加えないことの根底には慈悲の心があるのです。そしてすべての生きものですから、地球の生命のみならず、全宇宙の生命、そして次元の異なる世界に生きている生命に対して、慈しみの心を持ち、心配することです。

 次元の異なる生命に暴力など加えられないと思う人もいるかもしれませんが、精神的暴力ならば加えることが出来ます。例えば、次元の異なる生命に暴言を吐くなどです。逆に、それらの生命に慈しみの心を注ぐことも出来ます。私たちが唱える「生きとし生けるものが幸せでありますように」ということばは神々やそのほかに次元の生命に対する慈しみの心なのです。

 すべての生命に慈しみの心を持つということは、自分の心の壁の中に閉じこんでいてはできません。その心を、親しい生命にまで心を広げ、さらに自分の知らない生命にも心を広げ、地球上のすべての生命に広げ、全宇宙の生命に心を広げるのです。慈悲喜捨の心は無量心と言われ、制限なく、無限大まで大きく出来る心なのです。想像も出来ないようですが、無限大に広げられた心はすべてを包みこんでいるでしょう。そのような心を持つ人はバラモンとは呼べないでしょうか。毎日、慈悲の冥想を繰り返し、無量心を持つバラモンを目指して下さい。


○生きものに暴力振るわず殺さない殺させもしない彼はバラモン


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

この記事へのコメント

2008年12月13日 06:45
ワンギーサさん、おはようございます。個人的な感想ですが、次元の異なる神や餓鬼など認識も出来てなく存在すら正直まだ疑問ないのに?がありました。でも地球上の「生物」でさえよく知らないものです。「もし生き物であれば幸せであってほしい」という感じだと違和感なく、矛盾も感じません。慈悲の冥想の場合はある程度の言葉の入れ換え等はやり易いよう許容されてもいいんじゃないか?とは思います。それで四無量が育つなら。有難うございました。
ツヨシ
2008年12月13日 07:44
 ワンギーサさん、新さん、おはようございます。
 ゴキブリを見つけて、殺意がなく、助けようと考え、外に出します。
 慈悲ですよね。
 
2008年12月13日 08:28
ワンギーサさん、ツヨシさん、おはようございます。知り合いの方が個人的にスマナサーラ長老に質問したことがあります。もちろん慈悲についてですが、長老のアドバイスは「カルナーつまり心配する場合、怒りの感情がある場合もあるので注意」という趣旨でした。本当の慈悲の行動で助ける場合は、もう気が付いたら自然と手をさしのべていた。という感じなのでしょう。しかし、「なんだけしからんじゃないか、この悲惨な状況を回避させよう」という場合は「怒り」の衝動で人助けなんかをしてるかもしれませんね。心の変化スピードは早いのでそれが「慈悲」か「怒り」か分かりづらいかもしれませんが、大事なことでもあるし、誤って「自分は慈悲の人だ」と思わないためにも敢えてこの場をお借りして紹介させて頂きたいと思います。私自信も振り返ればかなり誤解していた、ということもありまして。有難うございました。
ワンギーサ
2008年12月13日 09:46
新さん、おはようございます。
次元の異なる生命について理解できなければ、心はそこが限界になります。それ以上心を広げることはできません。それはその人の問題ですから、人がとやかく言うことはできません。
慈悲か怒りかは、確かにいろいろありますが、困っている人がいれば、助けてあげるという態度でいいのだとおもいます。
ワンギーサ
2008年12月13日 09:48
ツヨシさん、おはようございます。
それは慈悲だと思います。その時の気持ちは清々しいものでしょう。
2008年12月13日 17:17
ワンギーサさん、ご指摘有難うございます。次元の異なる生命を理解するという事自体がわからないのです。少なくとも存在を肌で感じることは出来ない。だからと言ってはっきり存在しない、とも思えない。だからどうしても「もしそういう生命がいるのならば幸せに」という感じになってしまうのです。いると思えば、極めて観念的理解になります。何が疑問かというと、理解という点に関して所詮それは「不理解」なのか?ということです。慈悲と怒りについては微妙な問題ですが、結局はそれはエゴの問題になると思います。有難うございました。
ツヨシ
2008年12月14日 06:57
気づけないものには、慈しめないですよね。
2008年12月14日 07:43
ワンギーサさん、ツヨシさん、おはようございます。本文中には「知らない生命にも心を広げ」とあります。比喩なのか?ということです。次元の異なる生命や知らない生命にも慈悲の心が作れるくらいの「無量の慈しみ」を育てること。という意味なら理解出来るのですが。この場合、次元の異なる生命を知ってる知らないは問題外となると思います。有難うございました。
身の丈修行者
2015年03月13日 08:08
自分が慈しみの心を持つ事で、それが広がって行くきっかけになると思うと素適に思います。
日常で実践していきたいです。

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