この世では欲望はなくあの世にも期待持たない彼はバラモン

ダンマパダ 410

この世おいてもあの世においても
欲望を持たない
無欲なこだわりのない人
彼を私はバラモンと呼ぶ


○この詩から学ぶこと

 この世において、人々がいろいろな欲望を持っていることは誰も疑問を持たないでしょう。しかし、あの世における欲望とは何か、あるいはあの世はあるのか疑問を持つ人は多いでしょう。しかし、この詩における「あの世においても欲望を持たない」の意味は、「死後に神々や梵天になりたいという欲望を持たない」という意味なのです。

 このことを受け入れられない人々もいると思いますが、仏教の考える心のレベルについて述べます。欲界心、色界心、無色界心、出世間心と心のレベルは上昇すると考えます。
 
 欲界心とは、欲界の心です。欲界とは欲望がある世界です。より正確に言うと、肉体の感覚に基づく欲望が支配している世界です。輪廻転生する生命の心です。(星飛雄馬著「初期仏教キーワード」26ページ参照) 神々も輪廻するのですが、彼らは苦しみより楽しさが多い生命であるため、輪廻を信じる人々は死後に神々に生まれ変わることを望むのです。

 色界心とは、冥想によって生まれる力によって、欲界心のレベルを超えた次元の心なのです。肉体の感覚からの認識は超えていますが、その心はまだ物質に依存しています。高級な神々である梵天はこの心を持っています。(星飛雄馬著「初期仏教キーワード」38ページ参照)

 無色界心とは、物質にまったく依存することのない心です。これは色界の禅定を超える無色界の禅定が出来る修行者の持つ心です。(星飛雄馬著「初期仏教キーワード」43ページ参照)

 出世間心とは、存在の次元を超越した心です。この心はすべての煩悩が消えた悟りの心です。(星飛雄馬著「初期仏教キーワード」46ページ参照)

 以上を踏まえて、今回の詩を読んでみると、この世ではいろいろな欲望を持たず、死後に神々に生まれ変わることを望まず、こだわりのない悟りに達した人を、釈尊はバラモンと呼ぶのだと分かります。

 心は努力して修行すれば、どこまでも育てることができます。肉体は死んでも心のエネルギーは止まることなく、その心のレベルに応じた存在形態で成長すると仏教は考えています。

 慈悲の冥想では、私の幸せを望むだけのレベルの心から、親しい人の幸せを望むレベルの心に育て、すべての生命の幸せを望むレベルの心に育てるのです。すべての生命の幸せを望む心は梵天の心です。

ヴィパッサナー冥想では無常、苦、無我、因果関係を理解して、煩悩を断ち切る智慧を開発します。煩悩が心の成長を妨げているのです。すべての煩悩がなくなった時、心の成長は完成するのです。

○この世では欲望はなくあの世にも期待持たない彼はバラモン

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

この記事へのコメント

2008年12月18日 06:40
ワンギーサさん、おはようございます。欲界についてはリアルで誰もがピンとくるかと思うし、仏教はそこから脱出する道をかなり説いているので、最低のレベルであり「そこからスタートする」という理解は分かり易いと思われます。問題は色界、無色界、出世間とレベルが上がるにせよ「その順番で心が成長するのか?」ということです。その辺は理解した方がいいのか、敢えて理解する必要などないのかも疑問ではあるのですが、例えば不元果では色界、無色界への執着がまだ残ってるとされている記述など見ると、無色界禅定を経験しないと不元界心や阿羅漢界心が現れない。という理解も出来てしまいます。一方で無色界禅定は悟りを開くためには必要ではないという教え(出どころは忘れました)を聞いたことがあります。その辺はどうなのでしょうか?もっというと、色界禅定を経験しないと悟りの境地は無理なのか?ということもあります。あくまで実践が重要でそこで体験するものであって、言葉や理屈の世界での理解はどうかとも思いますが、その線引きすら分からないので疑問をぶつけてみました。有難うございます。
2008年12月18日 06:43
不元果では誤字で、「不還果」でした。
2008年12月18日 06:48
不還界心や阿羅漢界心も誤字で「不還果心」「阿羅漢果心」です。
ワンギーサ
2008年12月18日 07:16
新さん、おはようございます。御質問の件について。欲界心を持つ私たちの最終目標は出世間心です。智慧を開発すると、飛び級で目標を達成できると言われています。しかし、慈悲の冥想などで心を育てると、智慧も開発しやすくなり、目標の達成に大きな力になります。
ツヨシ
2008年12月18日 07:21
 ワンギーサさん、新さん、おはようございます。
 肉体の欲、物の欲、存在の欲、を捨てると、悟りですね。
2008年12月18日 07:53
ワンギーサさん、ご指導有難うございます。最終目標に達する方法と実践が大切なのですね。普通に生きてる場合は「最終目標」の設定は出来ませんが、仏教ではある。有難うございました。
林田明大
2008年12月19日 00:56
 「八正道」の実践による「心の浄化」ということ以外に、智慧を獲得するためのすったもんだが必要なのでしょうか。すったもんだの言い方が悪いんですが。要は、工夫(修養)と大悟とは別ではなく、心を浄化するであろう愛や慈悲とは別に、智慧の獲得にこだわることには、意味がないと思うのですが。愛や慈悲よりも、智慧にこだわる、スマナサーラ師の信者さんが身近におりますので・・・。
 私にとりましては、愛も、慈悲も、智慧も、イコールなのです。このこと、お手数をおかけします。九拝。
ワンギーサ
2008年12月19日 10:14
林田先生、コメントありがとうございます。八正道は「心の浄化」及び「智慧開発」のプログラムです。八正道以外に智慧開発の「すったもんだ」は必要はありません。慈悲と智慧とは、同時に育てていくものだと考えています。どちらが先かだのの議論は無意味だと思います。
 ただ、「愛も、慈悲も、智慧も、イコール」とは考えていません。仏教では、誤解をさけるために、また正しく理解するために、特に仏教用語は定義をして使います。愛はいろいろな意味を含むためあまり使いません。キリスト教でも愛はエロース、フィリア、アガペーなどに分類していると思います。仏教では、ですからいろいろな意味を持つ「愛」の代わりに、「慈」、「悲」、「喜」、「捨」という言葉を場合に応じて使います。この場合「捨」は「智慧」は似ていますが、少し違います。愛が智慧と重なる部分があるとは思いますが、誤解を避けるために区別します。
 以上ですが、反論がありましたら、またコメントを頂きたいとおもいます。宜しくお願い致します。
林田明大
2008年12月20日 02:07
 了解です。なるほど、確かに「愛」を、エロース、フィリア、アガーペに区別しますね。
 その用語には、久々に接しました(笑)。
 愛と恋を混同する人もおりますし、確かに「愛」という言葉は、語弊があるかもしれませんね。
 私は、ルドルフ・シュタイナー的な用語の「愛」に慣れてしまいましたので、ついつい、「愛」を使うんです。
 言葉の定義の問題に踏む込むと、本当に大変です。
 それこそ、議論の応酬になるんです。いつかおっしゃったように、私は興味がないんですが、そうはいっても、欧米人話をするときには、そういうわけにはいかないんですね(苦笑)。
 王陽明は、違いを際立たせるのではなく、逆に、同じだね、という点を指摘するのですね。私に言わせますと、その方はどうやら違うことが、誇らしいようなのですね。私だけが、真理を知っているとでも言いたげなんですね。誇らしげな態度は、悲しいかな、やはり伝わりますね。

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