清らかな満月のように淡白で歓喜を望まぬ彼はバラモン

ダンマパダ 413

汚れない清らかな月のように
清浄で淡白であり
歓喜の生活を望まない人
彼を私はバラモンと呼ぶ



○この詩から学ぶこと

 皆さんはどのような人生を望んでいますか。最近は不況、景気が悪化して、企業の倒産やリストラがあるため、仕事が見つかればいい、住む場所があればいいなど、あまり派手な人生を望む人が、少なくなっているかもしれません。

 しかし、私たちの欲望を刺激するテレビコマーシャルや番組が多く放映されますから、不必要なものや贅沢なものが欲しくなったり、面白、可笑しく生きて生きたいと思う人は多いのではないかと思います。

 ところが、釈尊が指摘される通り、生きていることは苦しいのです。楽ではないのです。欲望は常に増え、満たされることがありません。そのため私たちいつも欲求不満なのです。また、人間は皆自己中心主義者ですから、そして自分も自己中心主義者ですから、必ずぶつかります。人間関係は上手くいきません。心にはいつも怒りが溜まっています。智慧はありませんから、解決方法は見つかりません。面白、可笑しくは生きてはいけません。

 釈尊は次のように教えています。不満をなくすためには欲を少なくする必要があります。人間関係を改善するためには自己中心的な考え方を止める必要があります。また人生の諸問題を解決するためには智慧を開発する必要があるのです。

 今回の詩を何度か読んで、イメージを作ってみて下さい。雲がかかってない満月を想像して下さい。赤っぽい月もありますが、この詩の場合は青白い月のよう思います。そして、「歓喜の生活を望まない人」と言われると、どうでしょうか、皆さんがあんまり成りたくない人ではないかと思います。

 この人は大いに喜び、大いに楽しむ、また大笑いしたりしている毎日を送っているようには思えません。毎日、静かに生活し、笑うと言ってもそっと微笑むくらいです。これは私の勝手なイメージですが、皆さんは刺激の多い生活になれていますから、このような生活は物足りないと思うのではないかと思いす。

 しかし、釈尊はこのような人をバラモンと呼ぶと仰っています。私はバラモンの内心は分かりません。バラモンの内心は私が想像するものと全然違うかもしれません。でも外観はそのように見えるのではないでしょうか。仏教を学ぶ人は人生を期待、願望で見るのではなく、ありのままの生活を観察して、如何に生きるか考えるべきではないでしょか。釈尊はその答えを教えています。実践するかどうか決めるのは私たちです。


○清らかな満月のように淡白で歓喜を望まぬ彼はバラモン


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

この記事へのコメント

2008年12月21日 05:39
ワンギーサさん、おはようございます。詩の冒頭の「汚れない」が気になるところです。曇り気味だったり、晴れでも側に雲がある場合は「汚れる」可能性がいつでもあり、美しく輝いているのはほんの一瞬かもしれません。すごく澄みわたった快晴の夜の満月をイメージしてしまいます。それなら汚れません。曇を刺激の対象や煩悩などの比喩とするのなら、そうした世界と全く孤立無縁な世界で輝く月こそがバラモンに似合うんじゃないか?と思えるのです。あくまで勝手な想像ですが。有難うございました。
ワンギーサ
2008年12月21日 07:37
新さん、おはようございます。コメントに揚げ足をとるわけではありませんが、環境である天気で汚れたり、汚れなくなくなるようでは、それこそバラモンらしくないと思いますよ。バラモンはどんな時でも「汚れなく清らか」であると思います。
2008年12月21日 08:23
ワンギーサさん、ご指摘有難うございます。ワンギーサさんの仰ることはよく分かります。しかしどうもしっくりこないのです。実際、天気に左右されない美しい月は観念の世界でしかありません。具体的にいうと、曇がかかってしまっては美しくはありません。勿論ワンギーサさんの真意はそのような曇を全く寄せつけないで光輝く月という意味かと思われます。その意味では私の意味と同じなのです。晴れの日の満月は曇ひとつ寄せ付けてないという意味です。一切の煩悩はどこにも見当たりません。単に想像の仕方の違いだと思います。自然法則的には、曇りがちの日に雲ひとつかからない満月を見られるものなのか?という疑問からです。晴れなら見られますから。有難うございました。
2008年12月21日 08:56
ワンギーサさん、もっと単純にいうと快晴の夜、光輝く月というのは一切の煩悩のない空で燦然と輝く。それがバラモンというニュアンスです。ダンマパダはよくこの詩のように比喩をが出てきますが、実際体験できる具体的なものから核心に至るのか?とか、又はじめの比喩が抽象的でそこから核心部分に至るのか?というようないくつかのパターンがあるのでしょうか。
ワンギーサ
2008年12月21日 12:31
新さんへ。比喩は理解のためのものですから、あまりこだわらないほうがいいのです。人の感覚はいろいろあります。ヒント来ない人もいます。こだわると大切なことを見誤ります。
2008年12月21日 13:36
ワンギーサさん、ご指導有難うございます。確かに「喩え」はあくまで理解しやすくするためですね。だからこそ相手に応じた対機説法が成り立つ。有難うございました。
高橋優太
2008年12月21日 13:50
ワンギーサさん、こんにちは。
初めてコメントさせていただきます。
この場で謝らせていただきたいことがあります。
今まで日本のお坊さま(大乗の)に対して不快感がありました。バカにしてしまったこともあります。
しかし、大乗のお坊さまでも、頑張って仏道に励む人が多くいることに最近気づき申し訳なく思いました。
ごめんなさい。
この前の12月13日のスマサーラ長老の仙台公演で、瞑想指導を受けて、本当に実践するかどうか決めるのは自分次第だと感じました。
これから質問やコメントをさせていただきたく思いますので、ご指導お願いします。

高橋優太
2008年12月21日 14:07
ワンギーサさん、こんにちは。
さっそく、質問させていただきます。
今回のダンマパタとは関係ないのですが、
パティパターの2008年11月号の巻頭法話で
「解脱目的で修行すれば、その善行為は解脱に達するまで蓄積されるので、心配する必要はないのです。」とあるのですが、
①「解脱目的」とありますが、具体的にどのような心境
 で修行すれば良いのでしょうか?
②修行というのは、ヴィパッサナー実践だけでしょうか ?
 慈悲の瞑想や布施、その他の善行為は解脱と、関わり
 があるのでしょうか?  
ワンギーサ
2008年12月21日 20:12
 高橋優太さん、コメントありがとうございます。御質問のお答えします。
①について、「解脱目的で修行すれば」とは、「解脱しようとする意思を持って修行すれば」という意味です。ダンマパダの一番、二番のはじめの句は「物事は意思に基づき、意思を主として、意思によって作り出される。」とあります。解脱しようとする意思がその人を解脱に導くのです。意思は業になりますから、今生の解脱が達成されなくとも、その人が解脱するまでの力に成るということです。ですから、どのような心境かと言えば、解脱しようとする強い意思を持っていることです。また、釈尊のことばを正しく、理解することです、巻頭法話にありますが、「執着を捨てたくないが、ブッダの教えはありがたい。実践したい」では駄目です。解脱するために、執着を捨てるという意思をもつことです。
ワンギーサ
2008年12月21日 20:24
高橋優太さんへの答え(続き)
②について、仏教の実践プログラムは八正道です。ヴィパッサナー実践もこの中に入ります。八正道のどの道も関連しています。どこから初めても八正道の完成に近づきます。八正道が完成されれば、正智慧が完成し、正解脱に到るのです。ヴィパッサナー実践に必要なサティは、八正道のどの道を実践する時も必要なことです。逆に八正道の実践でサティの力が養成されます。
 慈悲の冥想は狭い意味では、正定の実践の一つでしょうが、八正道は解脱に向かうための慈悲と智慧の養成プログラムですから、慈悲の冥想は八正道の実践と同一目標に向かうためのものです。
 布施は、自分の欲と反対の行為です。ですから欲をなくす実践になるのです。また、困っている人を助けることですから、慈悲を育てることになるのです。そして、慈悲の心を育てることは怒りをなくすことなのです。また、布施の意味を知って実践すれば、自分の無知をなくすことでありますから智慧を開発することになります。布施をよく理解して実践すれは、欲、怒り、無知の煩悩をなくす実践なのです。
高橋優太
2008年12月21日 21:29
ワンギーサさん、ありがとうございました。
よくわかりました。
では頑張って執着を捨てるように、善行為します。

身の丈修行者
2015年03月15日 08:47
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説、そしてコメントを拝見し、深さを道の方向性を感じました。
「汚れない清らかな」「清浄で淡白」「歓喜の生活を望まない」は大切なポイントに思います。
ですが、長老解説の様にその言葉を目指して実行する・・のはイメージとしてはOKでしょうが、難しさがあると思います。
「人生を期待、願望で見るのではなく、ありのままの生活を観察して、如何に生きるか考えるべき・・」これを精進して参りたいです。

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