人生の障害難路乗り越えて涅槃に達した彼はバラモン

ダンマパダ 414


この障害、難路、
輪廻、愚痴を乗り越えて
彼岸に到った冥想者
動揺のない疑惑のない
執着のない涅槃に達した人
彼を私はバラモンと呼ぶ


○この詩から学ぶこと

 人生にはいろいろな障碍や難路があります。人生の障害というと、何を思い浮かべるでしょうか?人生の初めの障害は出産です。細い厳しい産道を死ぬ思いで生み出されるのです。赤ん坊はその苦しみをすぐ忘れてしまうので、覚えている人はいないでしょうが、最初の障害の筈です。受乳も大変ですし、病気も障害です。小学校への入学も障害です。勉強も障害ですし、受験も障害、就職も失業も障害、結婚や離婚も障害です。障害の連続だから生涯と言うのかもしれません。

 また、難路の連続でもあります。とにかく生まれてきても、安楽に生きることは出来ません。必死に泣かなければミルクをくれません。また、必死に泣かなければオムツを代えてくれません。そうでなければ、お腹がすいても、気持ちが悪くても我慢しなければなりません。兄弟がいれば兄弟にいじめられるし、だれもいなければ寂しいのです。生きている限り難路は続くのです。

 以上、人生の障害や難路の一部について述べましたが、これらはすべて人間の外側の環境なのであります。しかし、実は人生の本当の障害や難路は人間の内側、心にあることを忘れてはいけないのです。最も、この宇宙の歴史において、釈尊がこの事実を初めて発見したのでありますから、皆様が気がつかないのはやむおえないことであります。

 人生の苦しみの原因は渇愛なのです。これは釈尊が悟られた第一真理、苦聖諦です。ですから障害といえば渇愛なのです。また困難、失敗、不幸の原因は煩悩なのです。ですから難路と言えば煩悩です。煩悩が生命を苦しみの世界である輪廻に結びつけているのです。この事実に気づけないのは、愚痴、無明が原因なんです。

 ですから、渇愛、煩悩、愚痴(無明)を乗り越えるために、ヴィパッサナー冥想を行う必要があります。ヴィパッサナー冥想により智慧が開発され、無明が破れ、煩悩を捨てることが出来るのです。そして、輪廻から解脱して涅槃に到達するのです。

 冥想して、涅槃に達した人には動揺はなく、疑惑もなく、釈尊からバラモンと呼ばれるのです。


○人生の障害難路乗り越えて涅槃に達した彼はバラモン


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

この記事へのコメント

2008年12月22日 05:35
ワンギーサさん、おはようございます。今日はまさにこれぞ仏教という感じですね。ところで本文の解説には「煩悩が生命を苦しみの世界である輪廻に結びつけているのです。」とありますが、私の知識では「輪廻する原因は渇愛と無明」なのですが、その辺はどうなのでしょうか?内容的には同じことなのでしょうか?有難うございました。
ワンギーサ
2008年12月22日 07:17
新さん、おはようございます。普通、苦の原因は渇愛と無明だと言います。輪廻の原因は煩悩です。星飛雄馬著「初期仏教キーワード」150ページを参照してください。
ツヨシ
2008年12月22日 07:53
 ワンギーサさん、新さん、おはようございます。
 学生は単位を取る障害がありますね。そのために、友人、先生との話し合いが必要です。
 渇愛と無明が無くなると、穏やかに進めますよね。
2008年12月22日 08:05
ワンギーサさん、ご指導有難うございます。狭義か広義の違い、もしくはカテゴリー分析の違いでしょうか。実践レベルでは極めて難しい話しですし、現時点では保留かつ課題となるテーマですが、一応星飛雄馬著『初期仏教キーワード』のP129、水野弘元著『仏教要語の基礎知識』のP198を御覧頂ければと思います。有難うございました。
高橋優太
2008年12月22日 09:10
ワンギーサ先生、おはようございます。
渇愛なんですが、
スマナサーラ長老の苦しみをなくすことに、
「渇愛には3種類ありまして、五感に対する渇愛、生きることに対する渇愛、生きることを嫌がる渇愛・・・」
とあるのですが、生きることを嫌がる渇愛とはどういう意味でしょうか?
病気になった人が「もう死にたい」と思うことでしょうか?
それとも禅定に達するなどしてこの世に未練が消えた人のことでしょうか?

ワンギーサ
2008年12月22日 13:26
高橋優太さん、質問のお答えします。病気になった人が「もう死にたい」と思うことは生きることを嫌がる渇愛です。このうらには死んだら、すべてお終いという考え方があるからです。禅定に達しても、この世に未練がなくなるかどうかわかりませんが、阿羅漢がこの世に未練がないという場合は、生きることを嫌がる渇愛ではありません。
高橋優太
2008年12月22日 14:53
ワンギーサ先生、ありがとうございました。
あと勝手に先生と呼ばせていただいてますが、仏教の生徒になる条件(?)のようなものはあるのでしょうか?
やはり習うなら、しっかりと指導されたいし、自分で勝手に生徒といっても、はたして生徒になる資格が自分にあるのか疑問です。
2008年12月22日 21:16
ワンギーサさん、ツヨシさん、高橋優太さん、今晩は。私にはまだまだ未練が沢山あります。ツヨシさんのコメントを拡大解釈して共感してしまったのがその証拠です。最近スマナサーラ長老が「冥想の悪用」という主旨の説法をされましたが、その場で頬をひっぱたかれた心境でした。冥想実践は解脱という目標のためであり、やれ仕事がうまくいくだの人間関係が良くなるだの…というような目的のために仏教を学び冥想することを「悪用」と称され叱咤激励されたのです。ところが先ほど先日の高橋優太さんに対するワンギーサさんのコメントを何度も読み直し、スマナサーラ長老の教えが理解出来たような気分になり大変感激しました!また仏教徒とはどうあるべきか、何に注意し実践をすればより仏教を学べるかがワンギーサさんのコメントから理解出来ました!スマナサーラ長老は無意味な話はされないので、誰でも「解脱」できる資格はあるのですね。有難うございました。
ワンギーサ
2008年12月23日 07:16
高橋優太さんへ。仏教の生徒になる条件は三帰依と五戒を守ることです。
身の丈修行者
2015年03月16日 06:11
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「渇愛、煩悩、愚痴(無明)を乗り越えるために、ヴィパッサナー冥想を行う必要があります。ヴィパッサナー冥想により智慧が開発され、無明が破れ、煩悩を捨てることが出来るのです・・」これを実践して参りたいと思います。
実践して智慧になる程、言葉ではないもの・・になるように感じています。

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