水滴でハスの葉濡れぬそのように欲で汚れぬ彼はバラモン

ダンマパダ 401

ハスの葉の水のように
きりの先の芥子粒のように
欲望に汚されない人
彼を私はバラモンと呼ぶ



○この詩から学ぶこと

 ハスの葉に水を少し落とすと、その水でその葉は濡れないで、水は小さな水滴になります。また先の尖った錐の先に、小さな芥子の種を乗せると、そこに留まらないですぐ落ちてしまいます。そのように、世間では欲望の対象になるものが目の前にあっても、それを欲しいというような欲望が心に少しも現われない人を、釈尊はそのような人をバラモンだと仰います。

 言葉も内容も美しい詩ですね。なんともいえぬ穏やかなバラモンの姿が目に浮かびます。もう解説は要らないですね。でも一つ付け加えれば次のことです。

 なぜ、バラモンには心に欲しいという欲望が少しも現われないのでしょうか?

 簡単な答えは、このバラモンの心からすべての煩悩がなくなっているからです。この答えでは物足りない人のために付け加えれば、阿羅漢になっていなくても、ダンマパダ360、361番、このブログでは10月29日に記載した詩のような修行が出来ていれば、欲望の対象によって心に欲望が表れないでしょう。

眼において制御することは善いことです
耳において制御することは善いことです
鼻において制御することは善いことです
舌において制御することは善いことです

身において制御することは善いことです
語において制御することは善いことです
意において制御することは善いことです
一切処において制御することは善いことです
一切処において制御する比丘は
一切の苦から解放される

 各感覚器官からの情報から妄想しないように注意することです。阿羅漢になるまではそれは必要なことです。

○水滴でハスの葉濡れぬそのように欲で汚れぬ彼はバラモン


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

この記事へのコメント

2008年12月09日 05:48
ワンギーサさん、おはようございます。欲の対象は変化しますね。年齢によって随分変わったりします。普段何を見ても欲が生じないからといって、欲が消えたわけではありません。欲は「自分自身の中」にあるのでしょう。だからこそ感覚器官に注意することが大切なのでしょう。とまあ理屈を言いましたが、実際は「欲」の生まれるスピードがあまりに早いので、実感としては「対象のせい」にしがちですが、どこまで素直な実感としてそれを「自分のせい」だと感じられるかが重大なポイントだと思ってます。有難うございました。
ツヨシ
2008年12月09日 08:22
 ワンギーサさん、新さん、おはようございます。
 「香りだ。ラーメンだ。おいしそう。食べたい。
 いや、今は必要ない。さきほど、弁当を食べた。
 香り、香り、香り。
 さあ、勉強に戻ろう。」
 対象に気づいても、必要ないなら、捨てますね。
ワンギーサ
2008年12月09日 10:51
新さん、ツヨシさん、おはようございます。また、コメントありがとうございます。
身の丈修行者
2015年03月11日 07:27
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説から「心に欲しいという欲望が少しも現われない」状態にあれば、心が良い感じに制御出来ていると思っていいのかなと感じました。
また、「欲しい」ではなく「本当に必要なのか」みたいに見れる冷静さを保ちたいと思います。
身の丈修行者
2015年03月11日 07:27
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説から「心に欲しいという欲望が少しも現われない」状態にあれば、心が良い感じに制御出来ていると思っていいのかなと感じました。
また、「欲しい」ではなく「本当に必要なのか」みたいに見れる冷静さを保ちたいと思います。

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