帝釈天は不放逸で神々の最高位になり賞賛された

ダンマパダ 30


帝釈天は不放逸によって
神々の最高位になった
不放逸は賞賛されて
放逸は常に非難される


○この詩から学ぶこと

 この詩は神々の一人である帝釈天の物語で不放逸の説明をしているのです。かいつまんで話をすれば、神々が住む天界にはいろいろなレベルの天界があります。この中の一つに三十三天という天界があります。帝釈天はその神々の最高の位、すなわち王なのでした。ではなぜ王になったのでしょうか。帝釈天に輪廻転生する前、彼は32人の仲間たちと、村の道路を補修したり、休憩所を作ったり善行為をしていました。そのため村人からは喜ばれ尊敬されていました。しかし、彼はさらに、下記の七つの戒めを決めて生活していました。

 ①両親を養い続けること。②年長者を尊敬すること。③やさしい言葉で話すこと。④陰口を言わないこと。⑤物惜しみをしないで、お布施をすること。⑥嘘をつかないこと。⑦怒らないこと、怒りが現れたら、すぐ抑制すること。

 彼は、いろいろな善い行いをすると同時に、上の七つの戒めを守ることを実践したのです。戒めを守るためには、不放逸が必要なのです。なぜならば、常に自分自身に注意を向けて観察していなければ、戒めを守ることができないからです。私の経験では、嘘をつかないでいることなど、絶えず自分に注意を向けてないと嘘をついてしまう場合がありました。つい見栄を張って、年齢をごまかしたり、体重をごまかしたり、話を面白くするために、いろいろな数をオーバーに言ったりしたことがたびたびありました。自分に注意を向けてないとついやってしまうのです。

 帝釈天は、戒めを守ることで、不放逸を実践したので、三十三天界に転生しただけでなく、その神々の王になったのです。

 仏教の実践である八正道を「戒・定・慧」と三つにまとめることがあります。仏教の修行は戒(道徳)を守ることから始まるのです。戒を守ることは、戒を守ることで戒を守る人を幸福にするものではありますが、戒を守ることを通じて、正念の力、不放逸の力を育てるのです。そして正定の力が現れ、智慧が現れるのです。これは涅槃への道なのです。

 在家の修行者は五戒を守ることを真剣に実践すること、真剣とは朝起きてから寝るまで常に実践することですが、そうすると心が強くなることを実感すると思います。

 この詩のポイントは戒を守ることは不放逸の実践だということです。

○帝釈天は不放逸で神々の最高位になり賞賛された

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

ツヨシ
2009年01月16日 06:07
 ワンギーサさん、おはようございます。
「言葉の表面しか、見えていない。」と、言われました。
 言葉から、因果関係を考えていない、ということでしょうか。
 
2009年01月16日 07:02
ワンギーサさん、ツヨシさん、おはようございます。昨日の詩でも感じたのですが、なぜ「正念」ではなく「不放逸」なのでしょうか。集中力は誰でも「一時的に」は威力を発揮できるかと思います。しかしそれを「持続」するとなるとしんどいものがあります。以前読んだ本の中に「天才の秘訣は単に集中力ではなく、その持続力にある。」という一文が脳裏を横切りました。この「持続力」を強調するがために「不放逸」というのだと勝手やに思ってます。有難うございました。
2009年01月16日 07:18
ワンギーサさん、上のコメントの一文ちょっとわかりづらいかもしれないので、記憶を頼りにより正確に再現してみます。「我々凡人といえども生涯で天才に匹敵するような集中力を発揮することは珍しくない。では何が、天才との違いなのだろうか。それは「集中力の持続力」にある。代表的なのがニュートンで常人の域を超えた集中力を数ヶ月持続させて「プリンキピア」を書いたとしか思えないのである。」というような内容だったと思います。有難うございました。
ワンギーサ
2009年01月16日 07:35
ツヨシさん、新さん、おはようございます。

 ツヨシさんへ、そうですね。言葉にはその言葉を話す人の心があります。因果関係で言えば、その心は因です。私たちが注意しなければならないのは、その因(心)です。その判断は主観的になりがちですが、先入観を除いて、感情は抑えて、客観的に理解する必要があります。いろいろ書きましたが、素直に相手の話を聞くことです。それができないとKYといわれます。

 新さんへ、その通りです。不放逸というときは一時的な努力ではなく、持続的な努力が必要なのです。
あっきん
2009年01月16日 21:29
不放逸について自分の理解がとぼしかったですが
不放逸>正念>考えず捏造しない(スマナサーラ長老流の言葉)の関連性と解釈してよいのでしょうか またその違いは持続的な面の他には何かありますでしょうか?
宜しくお願いします。
ワンギーサ
2009年01月16日 23:07
あっきんさんへ、明日の31の詩で不放逸の意味を付け加えます。
2009年01月17日 07:23
 ワンギーサさんへ
 KYにならないよう、素直に聞いてみます。
2009年01月17日 07:42
ワンギーサさん、おはようございます。不放逸のヒントとして以前このブログ(新年祝福法要の日の)で『のうだま』を紹介して頂きましたが、今後も仏教を学び実践する上で色々こ紹介頂ければと思います。有難うございました。
身の丈修行者
2015年03月24日 07:54
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「絶えず自分に注意を向けてないと・・ついやってしまうのです」本当にそうですね。
また誰かに話している時等つい見栄を張り、やってしまうようにも思います。
自己観察は心の状態を自覚する事になりますね。
精進して参りたいです。

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