智慧の人見難く微妙なこの心守り育てて幸福になる

ダンマパダ 36

極めて見難く、極めて微妙で
好きな所に行く心を
智慧ある者は守るべきだ
守られた心は幸福をもたらす


○この詩から学ぶこと

 この詩でも心は「極めて見難く、極めて微妙で」と述べられています。昨日も書きましたが、心は色や形がなく、声を出さなく、匂いや、味もなく、触れることもできないのです。ですから、眼、耳、鼻、舌、身の感覚器官では感じることができないのです。では私たちはなぜ心の存在を知っているのでしょうか?

 すぐ答えを出すのは「もったいない」ですね。こういう問題は、自分でよく考えて分かった方が自分のためになります。たとえば、算数や数学の答えをすぐ教えてもらっても自分のためになりません。自分でいろいろ考えて、答えを出すのが一番いいのです。答えが分かった方は、コメント欄に記入してください。できれば、その根拠も書いていただくと、自分の考えが明確になりますし、他の人々のためになると思います。

 私の答えは明日書きましょう。ヒントは瞑想です。瞑想をするのは心を知るため、心を育てるためですが、瞑想によって心を感じることができるのです。

 さて、五感では心は感じられないのですから、見難いということがありますが、自分のことは自分が一番分からないということがあります。いつも怒っている人は、自分が怒っていることに気づいていないというのは普通のことです。そのような人の「怒らないで」と言っても、「怒ってないよ」という返事が返ってきます。

 また、心は元の心の状態と逆の表現するという場合が多いのです。気の弱い人が返って大胆な発言をしたり、大胆な行動をすることも少なくないのです。しかも、そのことに自分が気づいてないない場合も多いのです。そのために、ストレスが溜まり、病気になったり、酷い場合は犯罪を犯したりします。

 心が極めて微妙であることは、瞑想の方法などには大きな影響があります。ある能力や性格の人には、ある特定な瞑想方法がよく、他の瞑想方法は合わないということがあります。そのことは、日本テーラワーダ仏教協会機関紙の「パティパダー(2009年2月号)」の「巻頭法話」にスマナサーラ長老が詳しく書かれていますので、是非参照してください。

 そのような心を「智慧ある者は守るべきだ」と言います。では心を守るとはどういうことでしょうか?心は内外の情報を知るものなのです。そして、心はその情報に対して反応します。自分の好きなものは欲しくなります。それが欲です。自分の嫌いなもの、危険なものには反発します。それは逃げる場合も攻める場合もあります。それは怒りです。また、好きでも嫌いでもないものに対しては無関心を示します。それは無知です。

 心を守るとは、欲に従わないことです。必要かどうか判断して行動することです。怒りは身体の毒ですから、すべて止めることです。怒りで他人の関係が悪くなり不幸になります。無関心では知る必要のあるものも知ることができないので問題が起こります。ですから、智慧のある人は心を守ります。守られた心は幸福をもたらすもです。

○智慧の人見難く微妙なこの心守り育てて幸福になる


~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
 

この記事へのコメント

2009年01月22日 07:21
ワンギーサさん、おはようございます。一言で表現するのですか?今日の詩の内容からだと、自分の思い通りにならない面を言わないと答えじゃないですね。まず心は自分の中にある。ということはわかります。怒らないつもりでも怒りを抱いた人に慈悲の瞑想をすると友情が生まれます。怒りは対象でなく、自分の中にあります。答えじゃないですね。ある程度意図してるしわかりやすいですから。それを感じるのが、体の疲労と心の疲労とは違うという場合です。体調万全、元気やる気は満満で瞑想をする。やってみると妄想や眠気などで「こんちくしょう!」と思う。逆に、体はヘトヘトでどうかな?と思っても、妄想も眠気も起こらず集中してしまう。自分の意図を裏切るような何かのエネルギーが存在します。それが心です。瞑想中の痛みも勝手に現れて制御出来ませんが、痛みを認識出来るので答えから外れてますね。有難うございました。
2009年01月22日 08:30
 ワンギーサさん、新さん、おはようございます。
 座って、パソコンをしている人に、声をかけませんでした。
 この人とは、うまく話せたことが、なかった。と、思いました。
 無関心に、なっているのでしょうか。
2009年01月22日 08:31
ワンギーサさん、少し補足です。先のコメントの瞑想ですが、例を挙げた方が具体的と思われます。まず妄想と言っても、お腹の膨らみの次は縮みと無意識的に思ってしまうのも妄想です。縮みの次にはもう死んでるかもしれませんから。100%の事実ではありません。足の方の痛みをラベリングして頭の方の痛みをラベリングする時、下から上にいくような考えが生まれても妄想です。そんな事に注意しているとかなりキツイのですが、ある瞬間から違う世界に入りました。痛みなど何でもないのです。終了して本を読んでみましたが、普段難しい本でも一ページに二秒くらいで楽々一冊読めました。全然疲れません。通常の10倍は能力がアップした感じです。一日経って比較してみましたが、頑張ってもそのレベルには行けませんし疲れます。普段どれだけ妄想して能力をダメにしているか、ということですが、妄想を極力無くせば、少なくともその時は「心」の巨大な存在の凄さを感じることができると思います。有難うございました。
高橋優太
2009年01月22日 09:05
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。
心は感覚だと思います。それでその考えの根拠は感じているのは体ではなく心で感じているからだと思います。例えば、物は感覚がないので、殴っても反応しませんが、生き物は殴られると痛みを感じて何か反応します。怒ったりとか。そういう感覚に対しての反応も心だと思います。
以上が僕の回答です。問題、ありがとうございました。
行きとし生けるものが幸せでありますように!
ryusso
2009年01月22日 09:18
心の状態によって心の感覚が違います。それは意根で知ります。たとえば欲や怒りの場合は一つ所に凝り固まるように心が固くなってます。心の感覚はヴィパッサナーにより正知できます。
あっきん
2009年01月22日 11:33
は~い!ワンギーサ先生お答えします。 心はエネルギーだと思います。そして刺激に対して反応しものすごいスピードで変化します。それを自覚する方法は瞑想してサティをして確認することでしょうか 座る瞑想の場合、体を置物にするので、変化するのは心の働きのみ つまり心と向き合うからです。一時期”自分の心と向き合う”というフレーズが流行ったことがありましたが、実際あるのは心だけで、自分というものは変化するので仏教的にないというのが正確ですね  
線香花火
2009年01月22日 12:56
ワンギーサさん、皆さん、初めましてこんにちは。
毎日、ワンギーサさんの解説と共にダンマパダを勉強させて頂いております。誠にありがとうございます。

私も答えてみたくなり、投稿させて頂きました。
【私たちはなぜ心の存在を知っているのでしょうか?】
それは、渇愛からの貪・瞋・痴の思考があるからではないかと考えます。
ですから、怒り型の人は「慈悲の冥想」欲型の人は「勝利の経」及び「ヴィパッサナー冥想」無知型の人は「歩く冥想」を理に適うように薦められていると思いました。
慈悲の冥想は、全ての生命が平等でそして幸せでありますようにと願うと怒る理由が見つからなくなります。
座る冥想をすると「待ちます」と心で唱えた瞬間からこうしよう、こうしたいという欲が、そして自分自身がコントロールされていることを体感できます。
そして歩く冥想では、物事には順番、決められた法則があると言う事が見つけられると思います。ですから法則が見つかると自然と無知ではいられなくなるのではないかと考えました。以上です。
明日の回答を楽しみにしています。

一切の生命が幸せでありますように。
しげん
2009年01月22日 19:31
はじめまして
私たちはなぜ心の存在を知っているのでしょうか?
心は知る機能
全ての現象は生滅変化する諸行無常だからその無常に
気付くこと。気付くために冥想し、心の存在を確認する。
難しいですね。
よろしくお願いします。
2009年01月22日 19:58
ワンギーサさん、ご質問の何故によっては「心=魂」ではないから。心は実体として存在てないから。などもあるかと思います。不変のものは認識不可能ですから。有難うございました。
身の丈修行者
2015年03月26日 08:49
ワンギーサ長老本文の投げかけ、そして皆様のコメントを興味深く拝見致しました。
2015年の今ですが、時差?で参加させて頂きます。
「心は色や形がなく・・触れることもできなく・・感じることができない・・では・・なぜ心の存在を知っているのでしょうか?」感じた結果認識し、そしてその後(の行動)につながるという事がある為、心の存在があると気がつくのではと思います。
明日の偈を拝見するのが楽しみです。

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