この身体泡のようだと悟る人悪魔の花を断ち切るだろう

ダンマパダ 46

この身体は泡のようだと知って
陽炎の性質あると正しく悟った人は
悪魔の花の矢を断ち切って
死王が見えない所に行くだろう


○この詩から学ぶこと

 この詩は、1月17日のダンマパダ31番に述べたと同様に、他のある比丘が釈尊に瞑想の指導を受けて、僧院から遠く離れた森で修行していたのですが、どうしても悟れずに悩み、もう一度に釈尊に相談するために、僧院に戻る道中での出来事からできたと言われています。

 彼は道すがら、陽炎を見ました。そうすると、「この世のすべてのもは陽炎のように生滅を繰り返し、実体のないものだ」と感じました。彼はそこでしばらく瞑想を続けました。再び彼は旅を続けると川がありました。彼は川で旅の汚れを洗いました。その近くに滝があり、そのそばで座り、滝壷に落ちる水を観察していました。そして彼は「この世のものは、滝壷の泡のように、生滅を繰り返し、無常に変化続ける」と感じました。そでしばらく、瞑想を始めました。釈尊はこのことを神通力で知り、彼の前に現れて、上の詩を述べて説法されたということです。神通力を信じられない方は物語だと思って下さい。

 私たちが一番大切だと思っているもの、それゆえに一番執着しているものは自分の身体だと思います。一番ではないという人もかなりの上位で執着している筈です。その身体は実体がない、無常ではかないものだ、執着するに値しないことが実感できたら、ほとんどの物に対する執着がなくなるものです。執着がなくなるということは涅槃への道なのです。

 上の詩の「悪魔の花の矢」とは「三界」を意味し、三界とは欲界、色界、無色界の生命の住むすべての世界のことです。「悪魔の花の矢を断ち切って」とは三界への執着を断ち切ってという意味です。「死王が見えない所」とは涅槃のことです。

○この身体泡のようだと悟る人悪魔の花を断ち切るだろう

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年01月30日 05:03
ワンギーサさん、おはようございます。「この身体は泡のようだ」と心底思えるか鍵です。「泡」というのは極端な表現ではないか?と私自身感じてしまいますが、それこそが執着の正体です。最近、ダンマパダの比喩のパターンがわかってきました。バラモンの境地など難解なものは、理解不可能なものを自然現象を比喩としてイメージさせてくれます。この場合は比喩にこだわると本筋を見失う可能性があります。一方、今日の「泡」などはむしろ比喩にこだわべきで、わかったつもりの理解を「泡」の一言で叩く役割をしているように思えます。ダンマパダには発見があります。身体への執着ですが、長老に教わった「私の本性は老いる性質。病む性質。死す性質。のものであると朝、昼、晩、観察する」というブッダの教えを何度も読んで実践している最中です。「泡」の境地まで行きたいものです。有難うございました。
2009年01月30日 07:10
 おはようございます。
 体から出てくる脂が、肌の乾燥を守っている、と聞きました。
 体を洗い過ぎると、乾燥します。
 体をキレイにするのを、ホドホドにします。
林田明大
2009年01月30日 19:03
 仏教の教えで忘れてならないのは、「中道(中庸)」です。
 ただ、一般的には、誰しも肉体に執着するのが普通ですから、どうしても肉体(物質)には意味がない、この身(物質界)は幻だ、といった言い方がなされますが、その言い方が強烈に作用して、江戸期には、仏教信者の中に、自殺する人が出てきました。もちろん、誤解なのです。
 あくまでも、方便としての教えなのだと思います。肉体や命を軽視する人には、全く逆の、肉体は、命は大切ですと、いった言い方をしたはずです。
 実生活を疎かにしてまで、精神世界ものに耽溺する人がいますが、それはバランスを欠いた生き方なのです。
 私はそう思います。
 ツヨシさんのコメントは、中道、ホドホド、という意味ですよね(笑)。
2009年01月30日 21:47
 「僕は」と、言うのをためらいました。
 自我を出すのを、やめよう、と思ったからです。
 でも、「僕は、行っていません。」と、言いました。
 「僕は」と、言わないと、話が通じないときがある、と思いました。
 自我を無くすことも、ホドホドに、と思います。
2009年01月31日 01:49
林田先生、ワンギーサさん、ツヨシさん、今晩は。ホドホドに=中道ということだと更に誤解されるおそれがあるかと思います。日本語のホドホドという言葉からは「いい加減に」という逃避的なニュアンスも感じられるからです。私の中道理解は「しっかりした道」です。例えば、肉体を軽視して精神世界を重視する。という点でこの詩は「色界、無色界」といった心の次元への執着を捨てる、というふうに否定されています。より高度な精神世界への執着も捨てなさい、と語り尽すところが「中道」的だと理解してます。身体を洗うにしても、目的がしっかりしていれば「どのように洗うべきか?」という結論は出てくると思います。お坊様方は人一倍清潔です。その目的がしっかりしてるからだと思います。有難うございました。
2009年01月31日 03:17
ホドホドに仕事して、遊んで、ホドホドに勉強してホドホドに食事をとり、ホドホドに休養する。これは「無知」でも出来ることです。しっかり仕事して、遊んで、しっかり勉強してしっかり食事をとり、しっかり休養をとる。これは「無知」では出来ません。智慧が必要で、中道とは「智慧の道」だと言えます。一方中道を実践することが「智慧」の開発に繋るものだと思います。すると仏教には非「中道」的な教えは存在しない。という結論が導かれます。有難うございました。
ワンギーサ
2009年01月31日 04:25
皆様、コメントありがとうございます。
特に、新さん長文のコメント何回もありがとうございます。
皆様のコメントで記事が充実してくるように思います。
林田明大
2009年01月31日 16:12
 「中道(中庸)」についてですが、私自身、やっとこの年で、もうすぐ赤いチャンチャンコの年齢ですが、中道(中庸)とは、こういうことだったのか、ということを痛感させられたところです。
 でも、まだ、痛感、つまり思い知ったにすぎません。体得までの道のりは遠いと言えます。
 「中道」とは、「しっかりと」でもないんですね。私の存じよりの仏教界では高名な先生からも、「私が頑張りすぎはだめです。過ぎるということは、自然ではない、中道ではないのです」と講演で話したところ、「頑張ってはいけないとは何事ですか」、とクレームがつきました(笑)。
 私は、しっかりすることを否定しているわけではなく、いい加減でももちろんダメ、頑張るののダメ、という自然体の境地があり、それが最も強いということを言いたいのです。ホドホド、という言い方でしか表現ができないのですが、言葉の持つ限界です。私の「中道」理解を他人に伝えることは至難の業ですし、実は「中道」には実感が伴わないものなのですが、それでも確実に、中道は存在しているのです。
林田明大
2009年01月31日 16:17
 文中、ミスがありまあした。ほぼ真ん中から下に、「頑張るののダメ、という自然体の境地があり」
とありますが、
「頑張り過ぎるのはダメ、という自然体の境地があり」に訂正させてください。
2009年01月31日 18:15
林田先生、今晩は。大切なのは何に頑張るのか?です。仏教の目的は「一切の煩悩を滅し、悟りに達する」と極めて明確です。目的がしっかりしてます。実際、お釈迦様は贅沢三昧の生活から断食苦行をされましたが、悟りには至りませんでした。つまり煩悩が残っていた、ということですが、その後「中道」を実践して悟りに達してます。楽でも苦でもない中間部分が中道なのではありません。誰も発見出来なかった悟りに達する方法論、智慧の完成方法、つまり「八正道」の実践が実際には中道だと思います。その中に「正精進」がありますから、頑張るということも「しっかりした道を頑張る」のであれば、少なくとも私には「中道」を実践している。と思えますが。因果関係からいって、頑張っても成果がないのなら、単に頑張ってるつもりなだけで怠けているのです。その辺、仏教は厳しい。ちなみに、中道を自然体で行える方は既に「悟り」に達していると考えられます。有難うございました。
2009年01月31日 20:37
林田先生、よく読むとちょっと話がずれてしまったようです。「しっかりした道」を敢えて表現すれば「完璧な道」です。最終的な「完璧」は悟りに達し「人格完成」した時だと思われますが、仏教の実践では「完璧」というのはかなりポイントです。冥想は100%の確かさでやらないとダメとされてます。99%を何十時間やってもただ足腰の運動に終わります。又、嘘をつかない。ということも100%確実じゃないとダメです。以上二つの100%の実行をホドホドと感じようが、苦行と感じようが、楽行と感じようが、それは別問題だと思います。要は実践できればそれが「中道」の実践です。しかし、ホドホドに嘘をつかない。ホドホドに気づきを入れる。という方向では「中道」から逸脱してしまってます。人間、本来怠けものです。私の実感としては、自然体、ホドホドを強調すると「怠け」が待ってました、とばかりに顔を出します。嘘をつかないのもキツイですが、それは私にとって「中道」「しっかりした道」の実践となります。有難うございました。
林田明大
2009年02月01日 19:45
新 様 
 批判的、否定的に受け取られると話になりません。また、私が信じている教えが絶対だと思っている人とは、議論にもなりません。
 ましてや、お互いの顔も見えないところでの議論には、まるで意味がありません。もちろん、お互いが尊重しあった関係であれば、顔が見えずとも、建設的な議論は成立します。
 「中道」から逸脱するようなホドホドを私が説いていると思われたのでは、これ以上議論になりません。
 この世には、頭で、思考で、言葉で分かる世界と、そうでない世界があります。また、信じる道や住む世界は違っても、無名であっても大変立派な方、凄い方はいます。
 新さんのコメントの最後に記してあります「有難うございました」の言葉が、形骸化していないかどうか、心底そう思って書かれているのかどうか、そうした点が問題なのです。
 考え過ぎては駄目、かといって、まるで考えないのでもいけない、考えていないようで考えている、そんな状態を意識し続けて、ふとある境地になった時に、公案が解けたことがあります。この件は、これにて。
2009年02月01日 21:47
林田先生、今晩は。どうも先生は誤解されてるようです。先生の「ホドホド」はコメントでも述べましたが「究極の境地」つまり「悟り」に思えるのです。「中道」を完成すればそのようになるでしょうが、私には「頑張る」べき、いやどうしても「頑張らねばならない」ものなのです。「ホドホド」は目指すべきものとしてはありますが、今の私には真似は出来ない。ということでもあります。議論として成り立たない問題でもあるかと思われます。目標とすべき「究極の境地」やそれへの「努力」はあくまで私個人の問題で議論の対象にならない気がしました。その辺がもしやずれてしまっている、と感じたので再度コメントさせて頂いたのですが…。有難うございました。
2009年02月02日 02:46
林田先生、今晩は。くどいようですが一言。「中道」は仏教の要であり、生命線です。だから、うやむやにするのでは「無責任」な態度です。私の率直な意見を述べます。「悟ってない」私の「中道」理解。ましてや自然体での「中道」など怪しいものです。悟ったつもり、自称聖者の危険が伴います。ではどうするのか?それは、お釈迦様の説かれた「中道」を信じ、実践ることです。何故なら、それは「あまりに為し難い道」だからです。常に高いレベルを念頭に置けば、「中道」について謙虚な姿勢でいられます。ちなみに仏教は盲目的な「信仰」ではありません。私が「八正道」を絶対視するにはそれなりの訳があります。仏教は「反煩悩」ですから、八正道と照らし合わせることで今の「煩悩」のあり方がある程度掴めます。敵を知らずしては戦えませんから。嘘を例にとれば、どうでもいいような嘘(つく、つかないは別)にこそ、私達を支配してる煩悩の力の大きさを感じます。一応、「中道」の理解はその程度です。これ以上はわかりません。有難うございました。
身の丈修行者
2015年03月29日 05:54
三界への執着を断ち切る事が涅槃に繋がると学びました。
執着を断ち切るにはヴィパッサナー冥想の実践かと思います。精進して参りたいです。

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