愚か者自分を愚かと思うならそれこそそれで彼は賢者だ

ダンマパダ 63

愚か者が自分が愚かと思うならば
その人はそれによって賢者だ
愚か者が自分を賢いと慢心するならば
その人はそれこそ愚か者と言われる


○この詩から学ぶこと

 このダンマパダの詩は、古代ギリシャの哲学者プラトンの「ソクラテスの弁明」(無知の知)が引用されて解説されることがあります。その内容は次のようなものです。「彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていない。」 つまり、ソクラテスは自分が知らないことを知っているだけ、彼らより賢いというわけであります。

 また孔子は論語の中で「これを知るを知るとなし、知らざるを知らずとせよ。これ知るなり。」と述べています。ついでに、老子からも引用しましょう。「知りて知らずとするは上なり、知らずして知るとするは病なり。」

 東西の賢者・聖人が述べていることは、自分が知らないということ、分かってないということを自覚することが非常に大切だということです。自分は知っている、分かっていると思ってしまえば、それ以上知ろうとしないし、分かろうとしません。そこで進歩が止まります。向上心が生まれてきません。私たちが知っていることなど、ほんの僅かだし、真理を知らない愚か者である私たちにとって、知っていること、分かっていることなど間違いが多いのです。ですから私は分かっていない愚か者だと思った方が正解なのです。むしろ本当にそのことを自覚できれば、その人は賢者なのです。

 ところが、自分が分かってないと思うのはなかなか難しいことです。ですから、老子の言葉のように、「知りて知らずとする」ことは有効な方法だと思います。すなわち、私の解釈では、「自分は知っていると思っているが、まだまだ本物ではない。まだ本当には分かってないのだ。」と自分に言い聞かせるのです。

 特に、ブッダの言葉は、深遠な智慧によって正しく説かれた真理ですから、世間的な常識では理解できないのだと自覚して、分かったと思っても本当にブッダの意図が理解できてないと思った方が正しいのです。

 では私たち人間が、どのようにブッダが言われるように愚か者なのか、スマナサーラ長老の著書「あべこべ感覚」(サンガ新書)から引用して、列挙します。この本には、愚か者であることを「顛倒」という言葉で表現されています。
 顛倒が起こる場所
1.概念の顛倒 : 何かを見たり、聞いたり、嗅いだり、何かを感じるときに顛倒が起こる。
2.心の顛倒 : 心に詰まっている古い概念のために、新しい情報が正しく知ることができない。
3.見解の顛倒 : 自分の見解のため、新しい情報を正しく判断することができない。
 上記3つ顛倒の場所で起こるやってはいけない顛倒(愚かなこと)
1.常住 : 無常という真理に対する常住という顛倒
2.楽 : 苦に対して楽という顛倒
3.我はいる : 我はないという真理に対して、我はあるという顛倒
4.肉体はきれい : 「不浄である」である肉体に対して「浄である」という顛倒
(詳しい説明は上記「あべこべ感覚」を参照してください。)
   
 このように見てみると私たちはやってはいけない顛倒(愚かなこと)をやっているのです。ですから現状の私たちは愚か者なのです。このことを自覚して、顛倒しない見方、正しく見る見方ができるように学ぶ必要があるのです。真理を学ぶこと、修行は愚か者の自覚から始まるのです。悲観することはありません。

○愚か者自分を愚かと思うならそれこそそれで彼は賢者だ

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
 

この記事へのコメント

2009年02月12日 05:35
ワンギーサさん、おはようございます。かのアイザック・ニュートンも「真理という大海」の海辺で遊んでいるようだ。と同じようなことを言ってます。ソクラテスの「無知の知」は如何にも聖人の言葉なので、私の場合はそれではあまり悲観はおさまりません。むしろニュートン的な知識の世界の限界、つまり知識人の限界に触れた時の方が視界が開け様々な好奇心が出てきます。例えば脳科学者の話を聞くと案外当たり前と思われたことが実は??だったことがわかってくる。現代史では、第一次大戦は何故起きたか?の原因は専門家の間でもホントは不明だそうですね。びっくり!こんな話を聞いた時の感覚がブッダの説かれた真理探究への「態度」への架け橋になるんじゃないか?と思うことがあります。ソクラテスの「無知の知」からブッダの「愚か者」への理解は難し過ぎると私には思えるのです。仏教では過度に「知識」を追い求めても「苦しみ」が増える。という教えですが、知識のプロが語る「知識の限界」や「落とし穴」を知ることには切実でもありスリリングであり、仏教を学ぶ上でそれなりの意義があるように私には思えます。有難うございました。
2009年02月12日 07:00
 おはようございます。
 知っていることは、知っていることです。
 知っていること以外は、知りません。
「先生は、帰ったかな。」と、聞こえます。
「知りません。」と、言います。
ワンギーサ
2009年02月12日 07:30
新さん、おはようございます。
ニュートンの言葉は真理という言葉を使っていても、内容は知識です。知識は物質と似たようなところがあり、現れれば滅するのです。知識を求めるのは物質を求めると同じように欲です。ニュートンの見解は現代の科学者と同じ態度です。

ツヨシさん、おはようございます。
ツヨシさんが今知っていると思っていることをツヨシさんは本当に知っているのでしょうか?例えば、ある問題にツヨシさんがある答えを出しました。その答えが間違っていた場合、ツヨシさんは知っているといえるでしょうか。
2009年02月12日 08:21
 答えが間違えていた場合、知っているといえるでしょうか。
 間違えます。
 直します。
 進みます。
 
「1+1=知っている。」とは、言いません。
「1+1=2」と、言います。

間違っている場合は、「直します。」と、言います。
2009年02月12日 08:30
ワンギーサさん、ご指摘有難うございます。コメント文の最初のニュートンの箇所の「同じような」を削れば意味に一慣性が出てくると思います。より要約すると、知識人の知的営みによって、俗世間的な「無知の知」が指摘される。発想は俗なので、その意味でわかりやすいし、その意味での「無知」の発見もある意味いい。しかしやはり「知識世界の限界」があり、そこでブッダの「愚か者」を勉強するとかなり強烈にくる。という感じです。有難うございました。
ワンギーサ
2009年02月12日 09:27
新さん、ツヨシさんに何か言ってやって下さい。
2009年02月12日 09:42
ツヨシさん、おはようございます。「1+1=2」そういう学校で習うような知識、テストでわかる間違え、という問題を仏教で「無知」というのではないと思います。歴史の年号など記憶が間違えていても調べて直せばすむことです。ここで問題とされているのは、わかりやすく言えば、そういう知識も真理の立場からすると「誤知」である。という意味だと思います。仏教によると「ものがある」思った時点でもう完全な間違えだそうです。有難うございました。
2009年02月12日 10:09
誤解を避けるために補足したいと思います。「1+1=2」をしっかり学ぶ必要も確かにあります。しかし、それは「今の時代」に必要な知識です。昔は階級によって知識は不要でしたし、将来そんな知識は一切不要になるかもしれません。しかし、ブッダの説いた「真理」は人間がいる限り、いつの時代でも必要な「真理」という意味だと思います。なぜなら人間が生きてる限り「苦しみ」の問題は避けられないからです。そして、ブッダの説かれた「真理」とはその「苦しみ」を乗り越える道だからです。科学的真理も真理ですが、時代によって変わります。それ以上に「苦しみ」を増やしたりします。法則といえども「正法」とは言い難いと思われます。有難うございました。
2009年02月12日 11:20
 真理は、いつでも、苦しみを乗り越えますね。
2009年02月12日 12:23
ツヨシさん、今日は。そうです。苦しみがあるということは「真理」を知らない「無知」ということで、ワンギーサさんのご指摘されたことだと思われます。有難うございました。
高橋優太
2009年02月12日 17:01
ワンギーサ先生、新さん、ツヨシさん、こんにちは。
きれいな女性を見ると「肉体はきれい」とあべこべになります。肉体は不浄であると習い、なるほどと納得しても、そのように思ってしまうのは、僕が愚か者だからです。ありがとうございました。
ワンギーサ
2009年02月13日 04:24
新さん、ツヨシさんへのコメントありがとうございました。
身の丈修行者
2015年04月02日 07:56
人に何か注意する時、自分はそんな注意が出来る程の人間か?と思うと、とてもそうではないので謙虚に成らざるをえません。
ですので「私はそれはおかしいと(又は辛く)感じます。」と表現するようにしています。
自分が凄い、と思ってしまうと容易に周囲の方をさげすんだ上位解脱のような発言・接し方をしてしまいかねないと思います。
戒めて参りたいです。
※コメント楽しく拝見致しました。長老・新様・ツヨシ様・高橋様のそれぞれの関わりからさらに学びが深まるように感じました。感謝致します。

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