断食の苦行をしても価値はない法を究めた人たちよりも

ダンマパダ 70

愚か者が月、月に葉の先ほどの
食物を食べる苦行をしてみても
彼は法を究めた人たちの
十六分の一にも値しない


○この詩から学ぶこと

 この詩は苦行に価値がないことを教えています。つまり仏教には苦行がないということです。釈尊は出家して六年間、当時の修行者のように苦行を徹底して行いました。しかし、それでは悟れないことを確信し、その無意味さを理解しまた。そして苦行を捨てて瞑想し解脱されました。その後、釈尊が五人の比丘に説法されました。その説法は(初)転法輪経として残されています。(ウ・ウェープッラ著「南方仏教基本聖典」65ページ) その初めの部分に次のように書かれています。

 「比丘たちよ、これらの二つの極端は出家者のなすべきことではない。二つの極端とは何であるか、
 五欲における卑俗な・在俗の・凡俗な・聖者の行うものでない・利益を伴わない娯楽に執着し耽ること、
 及び、聖者の行うものでない・利益を伴わない肉体を苦しめる苦行に努めることである。
 比丘たちよ、如来はこれらの二つの極端に従わず、中道をよく覚られた。」

 引用文の後半が苦行に対する批判です。修行者の中に結構苦行が好きな人がいます。なぜ、苦行に価値がないのか、なすべきでないのか簡単に述べてみましょうと思いましたが、非常によい記事をネットで発見しました。

 日本テーラワーダ仏教協会事務局長の佐藤哲朗さんのブログ「ひじる日々 東京寺男日記 」(仏教に『苦行』なんかない) http://d.hatena.ne.jp/ajita/20070224
です。スマナサーラ長老のかやの木会館での説法の要旨が上手にまとめられてあります。是非それをお読みください。

 スマナサーラ長老が苦行に関して、全面的に述べられていますので、まとめることはできないのですが、あえてまとめれば、仏教は心を重視、心を育て、欲、怒り、無知を克服することを目的にしていますが、肉体に苦痛を与える苦行ではそれができないということです。肉体を苛めても心は育てられないということです。少し具体的な誤解について言えば、戒律は肉体を苛める苦行ではなく、心を育てる修行です。戒律が苦痛と感じるとすれば、それは心の問題だと、スマナサーラ長老の説法にもあります。

○断食の苦行をしても価値はない法を究めた人たちよりも

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
 

この記事へのコメント

2009年02月17日 05:39
ワンギーサさん、おはようございます。苦行とは肉体主義、物質主義の産物でしょうか。肉体主義については、最近読んだスマナサーラ長老著『ブッダはなぜ心を重視するねか』にかなり鋭く書かれているように思え、衝撃的でした。少し引用させて頂くと、「天国も永遠の命も物質です」「経済とは自分の利益を追う肉体主義の世界」「政治も人を支配する肉体主義の世界」「芸術もモラルもすべては肉体のため」…挑発的で世間の常識の偽善を暴くように感じられますが、これらはほんの一部です。確かに私は「精神主義」のつもりで実は「肉体主義」である「無知」に気づかないものだと、ある意味痛快でもありました。一方主題的なものとして「人は嘘にしか惹かれない」という一節にも唸らされました。有難うございました。
2009年02月17日 05:40
 おはようございます。
 座っています。
 おしりに、痛み、です。
 足を動かします。
 立ちます。
高橋優太
2009年02月17日 09:42
ワンギーサ先生、新さん、ツヨシさん、おはようございます。新さん、さっそく「ブッダはなぜ心を重視するのか」を勉強したくなりました。ありがとうございます。
あっきん
2009年02月17日 11:15
こんにちわ。
昔、プールに行くと修行僧ゴッコをしてました。
テレビで滝に打たれる僧(==;)ゥゥ~を見てカッコイィーと思いました。正しい教えがないと人間は変な道に行ってしまいますね。また正しい教えかどうか点検する必要もありと心が反応しました。
身の丈修行者
2015年04月04日 07:59
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「仏教は心を重視、心を育て、欲、怒り、無知を克服することを目的にしています・・肉体に苦痛を与える苦行ではそれができない・・肉体を苛めても心は育てられない・・」とても分かり易いです。
自己啓発系でしばしば比叡山・千日回峰行の話がでました。凄い究極の修行でここまで心・身体は鍛えられる・・との趣旨でしたが、その行の何が凄いのか良く分かりませんでした。
邪見を持つことなく大事な事を見分けられる智慧を持てるように精進したいです。

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