尊敬と権力願う愚か者 実のない修行と供養を願う

ダンマパダ 73,74

愚かな比丘は実のない修行と
比丘たちの間では尊敬を
僧院においては権力を
他の家では供養を願う

「これは自分が為したもの
在家者も出家者も共に
何事も自分の意に従え」
これは愚かな比丘の思うこと
これにより欲求と慢心が増大する


○この詩から学ぶこと

 「実のない修行」とは心を育てる修行でなく、智慧を開発する修行でなく、格好をつけるための修行、立派な比丘と思われたいための修行です。愚かな比丘が行うことです。このような比丘は、比丘の間では、立派な比丘と思われたいのです。そして、お寺では、お寺の一切の行事を仕切りたいのです。そして自分が偉いことを示したいのです。また、在家の信者さんの家に行けば、立派なお坊さんがいらっしゃったと尊敬され、お布施をいろいろもらいたいのです。

 なぜ、このお坊さんはそんなことをしたいのでしょうか? 自分の心を観察していると、「認めてもらいたい。」という思いがあることが分かると思います。この思いはかなり根強く、幼い頃から槌鍛えたものなのです。親や先生に誉められたり、怒られたりして、育ってきたので、誉められたい、認められたいと言う気持ちは強いのです。しかし、あまり慣れた感覚なので、気がつかない場合も多いのです。ですから、自分は違うと思う人も多いのです。

 勉強のできる子は勉強で自分を認めてもらい、スポーツのできる子はスポーツで認めてもらいたいのです。勉強もスポーツもできない子は、面白いことを言ったり、やったりして目立って、自分を認めさせようとします。お笑い芸人などはそのような人は多いと聞きます。みんな認めてもらいたいのですね。

 なぜ、人はそんなに認めてもらいたいのでしょうか? それは認めてもらわないと不安だからでしょう。人から認められなくとも、不安にならない人は確りした人なのです。悟った人以外の多くの人は、他人から認めてもらわないと不安だと思っていますから、いつも人の評価を気にして、自分の評価を上げて安心したいのです。これらの人々は他の人々の評価に依存しているのです。人々の評価は、一人ひとり違うものですし、絶えず変化しているのですから、人の評価を気にしている人々は安定せず、絶えず不安なのです。そのため、見栄のための修行をしたり、尊敬されるために、無駄な努力をするのです。

 仏教的には、幻覚である「私」、無い「私」を認めて欲しいと思うことですから、はじめから無理な話なのですが、この「私」という概念から慢心が生まれます。仏教用語では「慢」といいます。

 慢とは、「私は存在する」という実感から、自分を基準にして他者と比べるはたらきです。奢り高ぶることです。慢には3種類あります。
1.増上慢 : 自分が他人より上だと考える。通常の意味での慢心です。
2.同等慢 : 自分が他人と同等と考える。
3.卑下慢 : 自分が他人より劣っていると考える。
(星飛雄馬著「初期仏教キーワード」66ページ参照)

 認めて欲しいという思い、これは他人の評価を気にする、他人の評価に依存する生き方は、幻覚である「私」に依存す生き方なので、いつも不安であり、心の安心は得られないのです。また幻覚である「私」を基準にして、他人と「私」と比較して、慢心したり卑下したりして、心の安定は得られません。ですから心の平安のためには「私は無い」という無我を悟る必要があるのです。

○尊敬と権力願う愚か者 実のない修行と供養を願う
○何事も我に従えと威張る者 愚かな比丘の慢心増える 

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
 

この記事へのコメント

2009年02月20日 05:29
ワンギーサさん、おはようございます。「私」という幻覚から「私は正しい」という考えが生まれるそうですね。すると、「他者は間違ってる」となります。「私」からみて間違っている他者から認められてどうなるものか?とは思いますが。矛盾してますね。一方人間一人では生きていけないのも事実です。その場合、「私こそ正しい」という考えで他者を従属させようとする暴力思考ではなく、「私というエゴ」をなくすのが、「道徳的」なのでしょう。「エゴ」をなくす努力により、他者との共生が可能になりますし、心も清らかになるでしょうから。尊敬を得るためのような「私欲」に基づく行為つまり偽善と、「エゴ」に基づかないで結果的に尊敬を得たのとではまるで正反対です。「善行為」をしようとする場合でさえ、それが自分の「エゴ」に基づくものか否かには十分注意したいと思います。有難うございました。
2009年02月20日 07:17
 おはようございます。

 成績表を見ます。
 卒業研究の欄に、「B」が付いています。
 Bは、70~79点です。
 卒業です、と書かれています。
高橋優太
2009年02月20日 07:19
ワンギーサ先生、新さん、おはようございます。人に認めてもらいたい、と思っても不安になるんですね。けっこう僕は人に認めてもらいたがりなので、善行為をしようと思っても、見栄にならないよう気を付けます。
ワンギーサ
2009年02月20日 07:32
新さん、ツヨシさん、高橋優太さん、おはようございます。
 新さん、そうです。矛盾した行動を繰り返しているので愚か者と言われるのです。
 ツヨシさん、卒業おめでとうございます。
 高橋優太さん、瞑想を習慣にする努力をしていますか?
あっきん
2009年02月20日 08:10
おはようございます。
出世魚ってありますよね。
ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ
仏教は心にポイントをおいてる所に違いがあるのかな。
心が成長する段階が幾つかあり最後に阿羅漢になる。
心は消滅し変化する。
私がいると錯覚すると慢や溺愛等が生まれる。
私がいないと気がつくと煩悩が無くなり解脱する。
認めてもらいたい気持ちは私にもある。的確な事を言ってくれる人を頼りにしたいです。
高橋優太
2009年02月20日 11:53
ワンギーサ先生、こんにちは。はい、朝と夜、30分ずつですがやっています。
高橋優太
2009年02月20日 12:00
あと、気になったのですが、歩く冥想のときも妄想を中継しますよね?
高橋優太
2009年02月20日 12:06
すいません、もう一個、質問あります。
三帰依文の「ダンマ(法・真理)に帰依いたします。」
のダンマは、お釈迦様の教えという広い意味ですか?それとも因果法則や四聖諦のことでしょうか?
ワンギーサ
2009年02月20日 12:18
高橋優太さんへ
歩く瞑想の時は、妄想は実況中継しません。足の動きに集中して、足の動きを感じながら、動きを実況中継するのです。
その時のダンマンは仏陀の教え(真理)です。ですから因果法則や四聖諦は含みます。
高橋優太
2009年02月20日 12:25
ワンギーサ先生、わかりました。ありがとうございました。
身の丈修行者
2015年04月05日 08:31
・○時間又は●年やってますよ・・みたいなお話。
・やっている姿を人に見せたいボランティア
そんな状況に接すると、何か違う印象を感じます。
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「・・認めてもらわないと不安・・人の評価を気にし・・自分の評価を上げて安心したい・・他の人々の評価に依存・・」心に響きます。
人の評価を気にして心が不安定になるような事がないように、心を成長させて参りたいです。

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