忠告し教えさとせばどうなるか善人喜び悪人嫌う

ダンマパダ 77

他人に忠告し、教えさとすように
善くないことから遠ざけるように
そうすれば善人たちから愛され
悪人たちから愛されない


○この詩から学ぶこと

 今回の詩の説明の前に、2月2日に掲載したダンマパダ50番を見てみましょう。

他の人々の過ちでなく
為したこと為さなかったでなく
自らが為したこと為さなかったことを
観察すべきです


 77番は他人に忠告するようにと述べています。一方、50番は他人の行為は見ないように、ですから他人の行為について、いろいろ言わないように、ということになります。釈尊は矛盾したことを言われているのでしょうか?

 77番の詩の成立に関する物語では、釈尊がサーリプッタ長老とモッガッラーナ長老に、行いの正しくない比丘たちに忠告するように、指示された時の詩なのだそうです。阿羅漢であられる二人の長老だから、他人に忠告したり、教えさとすことができるのです。

 ですから、悟ってもない私たちが他人の行為に対す態度は、50番の詩のように、他人の行為を見て、いろいろ言うのではなく、自分の行為をよく観察すべきであるということになるのです。

 では、なぜ悟ってない私たちが学ぶべき詩として、この詩が掲載されているのでしょうか?
私の現在の結論は次の通りです。この詩には前提があります。すでに述べたように、悟った人に言われたということです。もう一つは相手のに頼まれた場合です。つまり相談された場合です。相談された場合に、私は知りませんというのは、慈悲の心がありません。頼まれたら、それに応じるべきなのです。実は相談されるという条件は、非常に重要で阿羅漢たちですら、相談されるという条件なしには、むやみに忠告しないのです。なぜならば、相談されるという条件がなければ、相手に忠告を聞くという条件ができてないのです。条件ができてなければ、何を言っても聞かないのです。

 すなわち、「相談されたら」、「他人に忠告し、教えさとすように 善くないことから遠ざけるように」ということになります。相談されなければ、他人の行為ではなく、自分自身の行為をよく観察して、悪い行為をしないように、よい行為をするように精進すべきなのです。

 善人とは道徳を守ろうとする人であり、悪人とは道徳を無視する人だと理解すれがよいと思います。相談されて、忠告しても、相手の人が善人であればあなたは愛されるでしょうが、相手が悪人であれば、あなた嫌われ疎まれるということも始めから理解しておくことは賢い態度なのです。

○忠告し教えさとせばどうなるか善人喜び悪人嫌う

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年02月23日 04:35
 おはようございます。
「そこに、自転車を置いていると、持って行かれますよ。」私。
「どこに、置いたらいいですか。」
「あそこですよ。」と、私は指をさします。
「気づきませんでした。」と、自転車の方へ歩きます。
2009年02月23日 04:39
 慈悲になっていますか。
2009年02月23日 06:11
ワンギーサさん、ツヨシさん、おはようございます。今日の詩は難しいと思いました。何故なら、相談もせず忠告された場合でも「なるほど」と思うことがあるからです。すると可能性として他人に忠告する場合も時としてはよい。ということも言えるのではないか?と思います。私が言われたケースで考えてみると「支配欲でなく親切心から。仮定や妄想の世界でなく、事実から。そして屁理屈でない論理性」という感じの忠告だとすんなり聞けます。悪意に満ちた忠告や自慢や支配欲に基づくものはすぐ分かります。確かに、私たちは悟ってませんが、「相手を支配するのではない親切心があり、事実に基づき、それを筋道だてて分かりやすく説明できる」が可能であるとしても、それでもなおかつ、忠告に際しては相談されるという条件は必ず必要なのでしょうか?そのあたり普段生活して疑問です。有難うございました。
あっきん
2009年02月23日 07:25
皆さんおはようございます。
自分自身の事をよく知っている人は、他人のこともよく知っている。これは心理学から見た教えです(新聞で読んだことがある)判断を誤ると「あの人って本当に見る目がないわね」と後ろ指をさされます。文句を言うのと指摘するのは違う事だもんね。
ワンギーサ
2009年02月23日 07:55
ツヨシさん、新さん、おはようございます。
日常生活の会話で、必要なことを自然にできればよいのですが、それがむづかしいのですね。
 ツヨシさんは、自転車置き場のことは慈悲になっていると思うのですか、どうですか。相手の人が喜んでいれば、それで善いのではないですか。
 新さん。「相談されたら」というのは、現在の私の見解、私の基準です。新さんは新さんなりの基準を持てば善いと思います。実践して、悪けれ改善すれば善いのです。
2009年02月23日 09:16
ワンギーサさん、ご指導有難うございます。「相談」されたら。を念頭に置きつつ、自分なりに善き方法を模索してみます。有難うございました。
2009年02月23日 13:57
 喜んでいたので、善いと思います。
高橋優太
2009年02月23日 14:23
ワンギーサ先生、皆様、こんにちは。
中学生のころ、友達に「悪口が多いよ」、と言われました。
そのとき、認めたくなくて、ムッときました。だけど今にして思えば、そのことを指摘してもらってよかったです。その友達とは、仲が良かったので(今は合っていませんが)きっと僕のことを心配して指摘してくれたんだと思います。


身の丈修行者
2015年04月06日 08:20
相手に注意・忠告をする時は、すぐにせず少し考えて、自分の感情で言ってないか・相手が気分を害するような指摘の仕方をしてないか、配慮する必要があると思います。
職場に、相手のミスや欠点を話題にして本人には言わず、周囲に話す(そして自分の・・は目立たないようにする)方がいて、反面教師に感じています。
自分が有る程度心成長させていないと、人に指摘をする域ではないようにも思います。
「私はこう思います・感じます」程度の方が安全かなと思う時もあります。
相手が善人かどうか、との点も観察する必要がありそうですね。

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