最上人盲信せずに無為を知り法に従い欲捨てにけり

ダンマパダ 97

盲信せずに、無為を知り
輪廻のつなぎを断つ人は
法に従い、欲捨てた
彼こそ実に最上人


○この詩から学ぶこと

 この詩ができた因縁物語は次の通りです。釈尊は最終的な悟りに近い三十人の比丘たちに、あることを教えるために、サーリプッタ長老を呼んで、質問しました。「サーリプッタよ、人は私の教える瞑想によって涅槃に到達できることを信じるか?」 それに対してサーリプッタ長老は「尊者よ、私が涅槃に到達できたのは釈尊の言葉をそのまま信じたからではありません。」と答えました。それを聞いて、三十人の比丘たちは驚き、サーリプッタ長老を非難しました。釈尊は「比丘たちよ、誤解してはならない。サーリプッタ長老は瞑想によって涅槃に到達できると答えたのだ。ただし、私の言葉を盲信したからではなく、自分自身でよく学習し、実践によって理解して、盲信ではなく確信して涅槃に到達したのだ。」と説かれたということです。

 仏教では「信」を重要なことと考えています。これは「真理」対する「信」です。具体的には、仏(仏陀)、法(真理)、僧(聖者の僧団)、四聖諦、因果法則などに対する「信」ですが、盲信ではなく、理解に基づく確信なのです。これがないと、自信を持って修行ができないのです。

 無為とは有為の反対の言葉ですが、有為は現象の世界です。ですから、無為は現象世界を超えた涅槃を意味します。無為を知りとは、涅槃に到達して、涅槃の世界を体験したという意味です。
それは、つまり、生命を輪廻に結びつけている煩悩を断ち切ったということです。

 「法に従い」は、直訳すると、「機会を失う」ですが、私は「行いが法に適っていて、善とか悪とかを行うことではない」という意味だと理解しています。そのような人は当然、欲を捨てています。そのような人は阿羅漢ですから、最上の人なのです。

○最上人盲信せずに無為を知り法に従い欲捨てにけり

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年03月13日 05:07
ワンギーサさん、おはようございます。信についてわからないことあります。優柔不断や疑と比較した場合、はっきりとした区別があるにせよ、信とは「絶対」に近いニュアンスなのか?という点です。私の場合、仏蛇はどこまで知り尽しているのだろうか?悟り尽しているのだろうか?という思いがあります。又、僧については信頼関係ですね。因果法則については、やはりあるのではなかろうか、という思いがあります。例えばそのようなことも「信」の範疇に入るのでしょうか?有難うございました。
2009年03月13日 05:38
 おはようございます。
「あなたは、顔がわからない相手を、信じられますか」母。「わかるのは、言葉です」僕。信じるのは、実践して、観察したことです。先生の文章を読みます。「もっと細かく、実況中継するといいですよ」先生。やってみよう。「上げます。運びます。下ろします。」妄想が消えたなぁ。穏やかだなぁ。もっと実践しよう。もっと先生の文章を読んでみよう。
高橋優太
2009年03月13日 06:57
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。
盲信ではなく、スマナサーラ長老の御言葉をしっかり理解します。そして実践します。ありがとうございました。生きとし生けるものが幸せでありますように。
あっきん
2009年03月13日 08:00
おはようございます。
協会に入る以前、一回同じパターンの事をやっていると気づき落胆した。執着が無くなると楽だろうな。欲と一緒に削られパターンが変化するだろうに。自由になるだろうに。でも捨てる時に抵抗がある。
死ぬ間際に生に執着してらら死にきれないだろうな~? こんな事今まで考えた事がなかった。
心は面白いよ日々変わっていくんだから。
ワンギーサ
2009年03月13日 08:06
新さん、ツヨシさん、高橋優太さん、おはようございます。
新さんへ。
「仏蛇はどこまで知り尽しているのだろうか?悟り尽しているのだろうか?という思いがあります。」これは致命的な疑ですね。信の反対です。これがあると、修行は進みません。釈尊の教え全体について、信を持つかどうか考えるのではなく、一つ一つについて確かめ、確信にすることが大切です。疑は一度確信したことも疑ってしまうため、確信が広がらないのです。悟りは全体的な完全な確信なのです。「僧」は僧侶個人と考えるよりは、僧侶の集団と考えて方がいいです。僧侶の集団がなけれ、現代まで仏教が伝わらなかったのですから、非常に大切な存在なのです。因果法則を否定できる客観的根拠あるかどうか、確り考えた方がいいと思います。因果法則は仏教の根幹ですから、あいまいにしない方がいいのです。
あっきん
2009年03月13日 08:08
生に執着してらら死にきれないだろうな
      ↓
    してたら死にきれないだろうなでした。
   
2009年03月13日 08:25
ワンギーサさん、ご指導有難うございます。書き方が悪く、ひょっとして誤解されたかもしれません。「仏蛇はどこまで知り尽しているのだろうか?」というのは、表現は悪いかもしれませんが、仏蛇の知識レベル、智慧の世界の凄さ、途方もなさにあきれてるような感じです。なんと驚くべき巨大な知識人なのだろう!と。これはやはり「信」とは言い難いのでしょうか?
まお
2009年03月13日 08:32
 ワンギーサ様、新さん、ツヨシさん、高橋優太さん、あっきんさん、おはようございます。
 僧の言葉や法話を理解して、ただ盲信するのではなく、自分自身で学んで実践し、確信することで、涅槃に到達できるのですね。このことを心に刻んでこれからよく学びたくさん実践しようと思います。そうすれば確信を持つことができ涅槃に至ることが出来るのですから。

ワンギーサ様と皆様が幸せでありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
ワンギーサ
2009年03月13日 10:01
新さん。私が誤解して読んだようです。それならば結構です。
身の丈修行者
2015年04月16日 08:35
ワンギーサ長老の本文・解説の「「法に従い」は・・「行いが法に適っていて、善とか悪とかを行うことではない」・・そのような人は当然、欲を捨てています・・」を拝見して、意味を暫く考えました。
善行為だからやる・悪行為だから止めるのような見方ではなく、法で判断するとの事かなと思いました。
それは本文の「仏(仏陀)、法(真理)、僧(聖者の僧団)、四聖諦、因果法則などに対する「信」・・盲信ではなく、理解に基づく確信じ・・」があって出来るものかなと思います。
それについての確信はあります。自分に出来る時間・資金は全て投入して学ばせて頂きたいと決めています。
精進して参りたいです。

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