阿羅漢の住む所みな楽土だよ村であろうが森であろうが

ダンマパダ 98

村でも森でも
低地でも高地でも
阿羅漢が住む所は
楽土となる


○この詩から学ぶこと

 なぜ阿羅漢の住む所は、どんな所でも楽土になるのでしょうか?

 生きていくことは楽ではないのです。苦しいのです。と釈尊は仰っています。しかも私たちは自然に逆らって、法則に逆らって生きているのですから、さらに苦しくなるのです。自然の流れで、法則に従って生きていけば、苦しみは少なくなり、それなりに楽しみも見出すことができるのです。

 私たちは生まれたら、その日から老いて行くのです。そして、時々病気します。最後は死にます。それが自然の流れなのです。これには逆らえないのです。これに、逆らおうとすると、悩みや苦しみが増すのです。

 もちろん、なるべくゆっくり老いるようにすることはできます。これは、自然に沿った、法則に従った生き方をすることで、ゆっくり老いるということになるのです。不節制な生活、暴飲暴食をしたり、いつも怒っていたり、喧嘩したりすれば、ますます老化は早まります。

 病気には、二通りあります。一つは老化です。これは遅らすことはできても治すことはできません。ですから、自然の流れはこういうものだと受け入れることです。これに逆らうと必要以上に、老化を促進させ、苦しむことになるのです。受け入れるのが一番です。

 もう一つは治る病気です。治る病気というものは、自分が自然に反した生活をした結果として、現れるのです。病気になったら、自分の生活の誤りを知り、自然に合った、法則に合った生活をするようにすべきなのです。例えば、誤った食生活で、成人病になった人は食生活を改善する必要があるのです。それを改善すれば治る病気もたくさんあります。

 最近私は考えることがあります。がん治療で抗がん剤を投与します。抗がん剤はがん細胞の毒です。それは人間の細胞にも毒なので、副作用が大きいのです。抗がん剤を投与される患者はがんで苦しんでいるのに、さらに抗がん剤で苦しむことになるのです。がんを治したいという気持ちは分かりますが、人間はいづれは死ぬのですから、死ぬことを受け入れて、何もしないほうが、抗がん剤で苦しむこともなく、副作用もないのですから、返って長生きするのではないかと思うのです。もちろん、がんの種類やできた場所で非常に痛みを伴うこともありますから、痛みがあれば痛みをなくす治療は必要とは思います。私はがんになっても何も治療をしないと決めています。ちなみに私は僧侶ですが、薬剤師です。薬のことは分かっているつもりです。

 この問題は死を受け入れられるかどうかの問題で、患者本人にも家族にも医者にも難しいことではあります。しかし、これは自然に沿った、法則に沿った生き方をするかどうかという問題でもあります。

 以上、人間の生老病死について述べてきましたが、これのどこが本日のテーマ「なぜ阿羅漢が住んでいる所はすべて楽土になるか?」とどのような関係があるのでしょうか? それは自然の沿った、法則に合った生活をする必要があるが、私たちは自然法則を知らないということです。阿羅漢の住む所にいれば、阿羅漢の生活から私たちは自然に沿った、法則に合った生き方を学べるのです。そうすれば、そこは幸せな生活ができる楽土になるということです。

 阿羅漢と一緒にすめば、生老病死を受け容れるということが分かります。彼は老いることに逆らいません。病気になれば、自分の生活を改善します。人間だれでも死ぬのです。死ぬことも受け容れます。死に逆らうことから生じる悩み苦しみはないのです。このような生活ができれば、穏やかな静かな楽土に生きているといえるのです。

○阿羅漢の住む所みな楽土だよ村であろうが森であろうが

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年03月14日 05:08
おはようございます。
階段を下ります。右膝に痛み。痛み、痛み、痛み。ゆっくり動こう。一段ずつ、下りよう。下ります。痛くない。痛みが消えています。薬は飲んでいません。
2009年03月14日 05:49
ワンギーサさん、ツヨシさん、おはようございます。今日の解説は阿羅漢について語られたように思えないほど生々しいものを感じました。実際、周囲の高齢の方の大関心事と言えば、それは老・病・死だからです。死については若い人の方が違った意味で関心あったりしますが、年輩の方と病気について話すといかに自然法則に逆らおうとしてるかが伝わってきます。中には元気な方もいらっしゃいますが、体を使う仕事などしてあまり気にしてないようです。しかし、そんな人でも決して納得してるわけではありません。話題をもっていくとそらされてしまうことが多いからです。臭いものに蓋をしてるだけでは自然の摂理に則った生き方だとは思えないのです。ということで、阿羅漢の生き方の有り難さは心にしみるものがあります。実は私も死に際しては末期癌か否かに関わらず受け入れるつもりです。というよりジタバタしないで受け入れたいです。そのためには冥想を頑張りありのままを観察する必要があります。正直に心の底から納得できるかです。有難うございました。
あっきん
2009年03月14日 08:01
おはようございます。
健康診断に行った。
検査は痛みがありますが、トライしてみますか?    はい!(・o・)体の執着を無くそう

道に骨が落ちてあった。見たら鶏の骨だった。これが人間の骨だったら大騒ぎになるだろう。死ぬのが嫌だったら他の生命も殺してはいけないのだよね。
仏陀は人の盲点を指摘している気がします。
まお
2009年03月14日 08:25
 ワンギーサ様、ツヨシさん、新さん、あっきんさん、おはようございます。
 私は幼稚園の頃に自分は老化し病気になり死ぬんだと思って悲しくて泣いていました。仕事は苦しいんだやりたくない、生きていたくない生まれてこなけりゃよかったと思っていました。
 今はテーラワーダ仏教に出会ってけっこう気にしなくなったしいろんな面で改善されてきました。でも自分が急にばたっと倒れて意識がなくなった時等には落ち着いて事実を受け入れて理解する自信はありません。
 体の変化で心が動揺して無駄な努力をしないようにしたいです。だから事実をありのままに観察して受け入れることは大事だなと思いました。
 今日の法話については阿羅漢の住むところに近くでもいいから住んでみたいですね。そして阿羅漢の行いを学びたいです。
高橋優太
2009年03月14日 09:32
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。体の調子が少し悪くなると、けっこう怯えます。今は若いですが、すぐに動かなくなると思うと、嫌な気持ちもおこります。心は自然法則(老いること、病気になること、死ぬこと)に逆らおうとしています。無知だなあ、と思います。無知をなくすよう頑張ります。ありがとうございました。
林大貴
2009年03月14日 12:29
ワンギーサさん、こんにちわ。十善十悪の最初からの七項目は、身と口の戒律ですけど、最後の三項目(貪欲、瞋恚、邪見)は意の戒律との理解でよろしいのでしょうか? 怒らないこと、欲張らないことも戒になるのでしょうか? 色々本を読みますと、自分の誤知かもしれませんが、戒律は身口の行為に限られているという表現とよく出会うので、理解がスッキリしません。。意の行為を調整することも戒律になるのでしょうか?
ワンギーサ
2009年03月15日 00:29
林大貴さんへ。
戒律は形に表れた行為にのみ規定してあり、心で思った行為を規定していないのです。しかし、行為のリーダーは心ですから、修行者は心が悪行為をしないように、心を育てるのです。
身の丈修行者
2015年04月16日 08:47
私事ですが、高齢者介護の職場にいます。入所者の平均年齢は80歳は超えると思います。
家族の方で入所している親が老衰する事・そして死亡される・・の自然な流れを受け入れられず、クレーマーのように成る方が珍しくなくいます。親が○○になったのは施設のせいだ・・等です。
流れを知り・受け入れて生きる事、阿羅漢の生き様から学びたいです。

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