阿羅漢は森や林を楽しむよ欲を求めぬ人々だから

ダンマパダ 99

森林は楽しい
そこは人々が楽しむ所ではない
欲を離れた人々が楽しむ所
彼らは欲を求めないから


○この詩から学ぶこと

 「森林は楽しい」と言えるのは阿羅漢だけなのです。インドの森林は日本では考えられない恐ろしい所なのです。恐ろしい猛獣もいるし、毒蛇や毒のある昆虫もいます。植物もいろいろあります。食べられるものもあれば、食べられないものもあります。ですから、普通の人々は恐ろしくて入れる場所ではないのです。

 中部経典「第4恐怖経」で釈尊は「バラモンよ、私も、成道以前、悟りを得ていない菩薩であったときに、つぎのような思いが生じました。『森や山林の遠く離れた臥坐所は実に耐えがたいものだ。専一に楽しむことが難しい、もろもろの林は禅定を得ていない比丘の心を奪うように思える』」と述べておられます。(片山一良訳「中部根本五十経篇Ⅰ」72ページ)

 この恐怖経には十六種類の恐怖の原因が述べられています。十六種類の原因は、昨年の8月16日のこのブログの記載いしましたから、興味のある方はお読み下さい。
 http://76263383.at.webry.info/200808/article_16.html

 この原因を克服した阿羅漢には恐怖がないのです。そのような阿羅漢には森林は楽しい所なのです。この詩では、恐怖の原因を端的に欲で示しています。欲を離れた人、欲を求めない人は阿羅漢なのです。

 余談ですが、参考になる豆知識として追加します。森林のパーリ語は、アランニャです。似た発音のアラナというパーリ語があります。大阪の岸和田市にあるテータワーダ仏教のお寺の名前も同じアラナ(安寧)精舎です。アラナの意味は「争いがないこと。平和。無争。」です。ですから、森林は楽しい」には、「争いがないことは楽しい」というイメージがあるのです。

 再度、中部経典を引用すると、第139無争経があります。このお経によると無争とは争いがないことは無貪、無瞋、無痴、すなわち「涅槃」示しています。涅槃を楽しむ人々は阿羅漢です。この詩は森林の代わりに、無争を置き換えても意味のある詩になるのです。人々が楽しんでいるのは争い世界、煩悩の世界なのですから。

 この詩で「第七 阿羅漢の章」が終わります。

○阿羅漢は森や林を楽しむよ欲を求めぬ人々だから

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年03月15日 04:51
おはようございます。
森で歩きます。ザワザワ。風の音。木が揺れる音。シャー。遠くで車が走る音。歩きます。人が見えない。虫が見えない。草が見える。電話が聞こえない。パソコンを触らない。土を踏む。歩いています。上げます。運びます。下ろします。穏やかです。思考が浮かぶ。思考、思考。歩きます。
2009年03月15日 05:20
ワンギーサさん、ツヨシさん、おはようございます。恐怖経には大変勇気づけられます。怖がりだからです。最近は行ってませんが、森林は「怖い」ので苦手でした。私が仏教に関心をもつキッカケのひとつが、恐怖の原因が自分の心にあることへの驚きです。しかも欲が引き起こしているとは衝撃的でした。怒りの感情と共に克服したい感情です。一切の悪感情の起こらない阿羅漢の境地には憧れます。有難うございました。
高橋優太
2009年03月15日 07:22
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。僕の住んでいるところは田舎なので、夜は真っ暗な場所もあります。灯りがないと、何かに襲われるのでは?と怯えました。だけど恐怖経を読むと、問題は自分の心にあったようです。直します。今日は無駄話をしないよう気を付けます。あと今、思ったのですが、このブログを通して皆様方、心の先輩に会えたことはすごくありがたいことだと思いました。皆様、これからもよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
まお
2009年03月15日 07:49
 ワンギーサ様、ツヨシさん、新さん、高橋優太さん、おはようございます。
 私は以前祖父母の住んでいる山の田舎の森と農業の生活が好きでしたが、年月が経って考えが変わりました。そこでは近くの小学校も閉鎖し商店も閉店し書店もないしインターネットもできないので、テーラワーダ仏教の本を買って読むこともインターネットで教会のHPやこのブログを読むことコメントすることもできません。なので、今は今住んでいるところで満足しています。心を育てることのできる人間関係や環境の条件がない人が心を育てようと森で生活するのはけっこう難しいというだけではなく、そもそも心を育てることは根本的に難しいのではないかと思います。
あっきん
2009年03月15日 08:53
おはようございます。
昔、父が教えてくれた。人と言う字は棒が交って成り立っている。一人では生きていけないそれが人間なんだよ。阿羅漢は何も依存せず、人間を超越している。それが最高の幸せなんだ。
まお
2009年03月15日 11:14
 あっきんさん、おはようございます。
 日本語訳の経典の本にもいろいろと役に立つ情報があるのですね。中部経典・恐怖経、調べてみます。
林大貴
2009年03月15日 13:28
ワンギーサさん、こんにちわ。昨日の続きなのですが、こころの行為は戒律として規定していないのなら、例えば怒らないように努力することや、思考の二分化(中部経典第20 孝相経)などの意識を主体とした戒めの実践は、戒ではないのなら三学のどの実践項目に当てはまるのでしょうか?
ワンギーサ
2009年03月15日 13:45
林大貴さん。戒と戒律は違います。
林大貴
2009年03月15日 16:26
お返事ありがとうございます。では戒と戒律の違いはなんでしょうか? 教えて頂いたら幸いです。
ワンギーサ
2009年03月15日 19:54
林大貴さんへ。自分で調べて下さい。広辞苑でも分かります。
林大貴
2009年03月15日 23:14
わかりました。自分で調べてみます。
身の丈修行者
2015年04月17日 06:27
自分が森に入り修行する想像をしてみました。恐らく生存が怪しくなると恐怖に陥り、足が止まると思います。無理やり入ったとしても、一歩に大変時間がかかると思われます。
何かしらで恐怖を捨てれたら、何の事はない・・かもしれませんね。
恐怖を感じるシステムを分かり、そして克服できるよう精進したいです。

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