憎まない清らかな人憎むなら悪の結果は己に戻る

ダンマパダ 125

憎まない人を憎み
清らかで汚れない人を憎むならば
その悪行の結果は愚か者に戻る
風に逆らって投げられた細かいちりのように


○この詩から学ぶこと

 憎まない人を憎む人、清らかで汚れのない人を憎む人はどのような人でしょうか。このような人は怒りっぽい人です。いつも不機嫌で、いつも怒っている人なのです。結構こういう人は多いのです。怒りが癖になっている人は自分がいつも怒っているなどとは気がつかないので注意したほうがいいのです。いつも不機嫌な人はこの傾向があります。

 自分は違うと直ぐ思わないで、もしかしたら、自分はいつも怒っていないのかとよく点検して見て下さい。もし、自分はそのような人間だと気がつければ、改善できます。自分の悪い性格を改善するためには、自分の悪い所に気づくことが、最初に大切なことなのです。後は少しずつ改善していけばいいのです。気づけないといつまでも直すことができません。

 また、いつもではなくても、不愉快なことがあって、そのために、不機嫌になっている人は、憎んでない人、清らかで汚れのない人に対して、八つ当たりで怒ってしまうことがあります。これは大変危険なことです。

 憎まない、清らかな、汚れのない人は、大変立派な人です。もしかしたら悟られた聖者かもしれません。怒ることだけでも悪行為ですが、ましてや罪のない聖者を恨んだりしたら、大きな罪になります。日本にも「天に唾する」という諺がありますが、尊い人を恨んだり、怒ってはいけません。

 この詩に関するスマナサーラ長老の法話が日本テーラワーダ仏教協会のホームページにあります。そちらも勉強して下さい。http://www.j-theravada.net/howa/howa50.html

○憎まない清らかな人憎むなら悪の結果は己に戻る

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

ツヨシ
2009年03月28日 05:05
おはようございます。
「町に行きましたよ。」「そうですか」くだらない話だな。怒り。
理解するにはどうしますか。「行って、どうなりましたか」と聞くことが、理解
するための話になりますか。
2009年03月28日 05:30
ワンギーサさん、おはようございます。不愉快、不機嫌、苛立ちこそ注意したいと思います。「怒り」というコトバに惑わされがちです。人のことはとやかく言えませんが、私の場合「今、イライラしてるか?何か批判したがっているか?自分を責めてるか?」ということによくチェックを入れてます。ただ、チェックすると自己嫌悪に陥り「内攻的な怒り」になる可能性があるので自責にも十分注意が必要だとは考えてます。経験的に「その克服は焦らない。しかし幸福を壊す猛毒だという認識だけは捨てない」ということが大切かなという気がしてます。清らかな人に怒りを向けることは異常な怒りが慢性化する恐れがあるので十分注意が必要だと思いました。有難うございました。
あっきん
2009年03月28日 07:32
 おはようございます。
因果法則により結果は自分に戻ってくる。
警察に捕まらなくても、完全犯罪の成功はありえない。
知らない事の方が罪かも。
高橋優太
2009年03月28日 08:02
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。怒らないよう注意します。慈悲の瞑想で怒りを抑えます。ありがとうございました。
まお
2009年03月28日 08:43
 ワンギーサ様、ツヨシさん、新さん、あっきんさん、高橋優太さん、おはようございます。
 何かおかしなことがあると動揺し妄想し不機嫌になることがあります。智慧と慈悲が足りないと思います。悪行為をしたら繰り返す悪行為や悪い結果から抜け出すのが大変難しいということがわかりました。環境も大事だけど自分の心の状態がもっと大事だなと思いました。
あかさ
2009年03月28日 09:25
ワンギーサ先生、皆さん こんにちは、
怒りは、相手側の問題ではなく自分の側で怒る対象を探し回っているから出るのでしょうか。私の場合、イライラしていることに気がついても、まだ自力だけでは抑えることができません。そこで、まずお経のCDを聞いて落ち着きます。落ち着いたところで慈悲の冥想します。そうするとそれまでの怒りの対象については、さほど気にならなくなっていることに気がつきます。仏法僧に感謝します。
ワンギーサ
2009年03月28日 09:44
皆さん、おはようございます。
あかささんへ。
参考意見ですが、相手に怒りを持った場合、なぜ怒るのか考えたらどうでしょうか。自分に何かこうあるべきだというこだわりがあると、相手がそれに反した場合、怒りがでるのです。自分のこだわりを発見してください。そして、そのこだわりが、こだわる必要かどうか吟味してみて下さい。やはりこだわる必要があると思うのであれば、私に教えてくれませんか。反論していじめませんから。
2009年03月28日 19:55
ワンギーサさん、今晩は。ワンギーサさんのコメントを読んで、以前やった自分なりの妄想対策に通ずるものを感じました。いくら妄想するな!と言っても頭にこびりついたようになることがよくあるものでした。そういう時は逆に徹底的に考えて考えてみて、その心配事が「必ずそうである」という証明を試みる。すると「そうであるとは限らない」ことがかなり明確に分かり、しまいには考えること自体にウンザリしてしまいます。又、確かに「そうである」のなら「ではどうする?」を考えればいいわけです(このケースは殆んどありませんです)。あくまで個人的な方法ですが、以前しつこい妄想の退治に使ったやり方です。有難うございました。
あかさ
2009年03月28日 23:36
ワンギーサ先生、アドバイスありがとうございます。
確かに、多くの場合は相手に自分が勝手に期待するから起きる怒りで、こだわることではありませんね。しかし、こだわる必要があることも場合によってはあるように思えます。
1つは、私に協力依頼をしてきた相手が、対話時の合意内容に反して一方的に行動したり話を膨らましてしまい、そのために自分の負担が増える場合。(対話の時点で相手のウソと真意が見抜けなかった自分の観察力のなさからきているとは思いますが。。。) 
もう1つは、自分が仏教を学ぶ上で妨げになることを仲間が平気で言ってくる場合です。例は色々ありますがここには書きません。その時はとても憤慨しますが、後に、その出来事は私をより仏教へと向かわせてくれるきっかけになったという事実にも気がつき、それなりに感謝します。

あと、自分なりに怒るまでの猶予基準を設けていて、同じ人で3回まではがまんします。後はどうだか(笑)
ワンギーサ
2009年03月29日 07:52
あかささんへ。私の参考意見。
1.「約束は守るべきだ」は確かにその通りです。しかし、釈尊はダンマパダ50番で、他人の行為は問題にするべきではないと言われています。他人の行為によって、自分が怒るかどうかというのは、主体性のない態度のように思います。自分の行為は、自分で決めるべきだと思います。「他人は怒るが、自分は怒らない。他人は約束が守らないが、自分は約束を守る。他人は約束を守らないが、自分は怒らない。」ということが主体性のある人々の生き方だと思います。
2.仏教の勉強はいつでも、どこでもできるのです。机上の勉強より、生活上での勉強が本番です。本番で実践できるように、仏教の修行をするのです。心ない仲間の言葉に、怒らないでいられるかどうかが問われるのです。「自分が仏教を学ぶ上で妨げになること」とあかささんが思ってることは、あかささんの主観ですから、柔軟に考えたほうがいいのかもしれません。しかし、仲間が五戒を守ることを邪魔するようなことがあれば、怒ることなしに、毅然とした態度をとるべきです。この場合も怒る必要はないのです。
あかさ
2009年03月29日 15:18
ワンギーサ先生、
この場では問題を具体的に書くことができません。伝わらない部分が多すぎなので、これについて議論はやめます。スマナサーラ長老が先日の法話で、援助を求めてきた相手がウソをついているのを見破りながら、ある程度相手の計画に乗って言われたように援助をしてみるが、図にのってあれもこれもと際限なく求めてきた際には「そのことは自分には関係ない」と言って断ったという内容のお話がありましたが、それが私にはとても参考になりました。
アドバイスありがとうございました。
あかさ
2009年03月29日 15:34
追伸:スマナサーラ長老のお話を聞き、理解しようとすることは、本来の仏教を勉強するためにとってとても大事なことです。これは主観の問題ではないと思います。
身の丈修行者
2015年04月21日 12:32
ワンギーサ長老の分かり易い本分・解説の「憎まない、清らかな、汚れのない人は、大変立派な人です」心に響きます。
相手にどんな事をされてもそのれが実践出来たら、自分の心は汚れず、相手が出したものはそのまま相手に返るように思います。
また、コメントの中の「仲間が五戒を守ることを邪魔するようなことがあれば、怒ることなしに、毅然とした態度をとるべきです。この場合も怒る必要はないのです」大変参考になります。
相手のされるがまま・・で良い訳ではなく、かといって怒ってよい訳でもない。
そのような実践を意識してやって参りたいです。

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