牛飼いが駆り立てるように老いと死が生きものたちを死へと追いやる

ダンマパダ 135

牛飼いが棒で
牛を牧場に駆り立てるように
老いと死が
生きものの寿命を駆り立てる


○この詩から学ぶこと

 この詩を表面的に理解すると、人生は短い、時間を無駄にしないで、自分の夢や希望を達成するように、努力しなさいということになります。しかし、この詩の因縁物語を考えると、常識的な理解では理解できない、奥の深い意味があるのです。

 ローマ時代のセネカという哲人の「人生の短さについて」(岩波文庫)という本があります。その書き出しは次の通りです。「大部分の人間たちは死すべき身でありながら、パウリヌス君よ、自然の意地悪さを嘆いている。その理由は、われわれが短い一生に生まれついているうえ、われわれに与えられたこの短い期間でさえも速やかに急いで走り去ってしまうから、ごく僅かな人を除いて他の人々は、人生の用意がなされたとたんに人生に見放されてしまう、というのである。このような、彼らのいわゆる万人に共通な災いに嘆息するのは、単に一般の大衆や無知な群集だけのことではない。著名な人々にさえも、このような気持が嘆きを呼び起こしている。」

 「しかし、われわれは短い時間を持っているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。」

 さすがに、ローマの哲人である。人生は短いのではない、浪費しているのである。」は卓越した見解だと思います。そしてセネカの結論は「それゆえに、私の最も親しいパリヌス君よ、君は自分を大衆から切り離すがよい。年齢不相応に今まであちらこちら追い回された君は、結局のところ、静かな港に帰るがよい。」であります。世俗的な希望や目的を捨てて静かな生活を送れということだと思います。

 一方、古代インドの釈尊は、さらに明確に、希望、目的などは、年齢や社会の変化と供に変化している、そのような変化するものに執着は無意味であること、その執着を捨てれば安らぎが得られると語っておられます。このことに関しては、この詩の因縁物語と供もにスマナサーラ長老が詳しく日本テーラワーダ仏教協会のホームページの法話で詳しく述べています。是非お読み下さい。
http://www.j-theravada.net/howa/howa56.html


○牛飼いが駆り立てるように老いと死が生きものたちを死へと追いやる

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
 

この記事へのコメント

2009年04月04日 04:30
おはようございます。
「歌いに行こうよ。」「いきません。」「明日、休みでしょ。」仕事は休み。でも、修行に休みは無いよ。歌うよりは、歩きます。
2009年04月04日 05:11
長老の話を読みました。その後の観察です。
「彼女は、いるのか。」「いません」彼女は要らない。善友は居た方がいいな。「努力すれば、昇進するよ。」昇進は要らない。精進が要るな。「社長にはなれないだろうけどね。」社長にはなれなくていい。人格者には、なれるといいな。
2009年04月04日 07:20
ワンギーサさん、ツヨシさん、おはようございます。せネカの言葉の意味はよくわかります。それ以上に私達は死という現実から目を反らし、あくせくと動きまわってタイムオーバーになってしまうのでしょう。お釈迦様が指摘されたように何か「目的」を決めて生きても虚しかが残るだけです。ここで人間の「本業」とは何か?が問われていると思います。仏教に関係なく、それをじっくり考える余裕が必要だと思います。有難うございました。
まお
2009年04月04日 08:18
 皆様が幸せでありますように。(これから挨拶は慈悲の瞑想の言葉にします。)
 時間や場所によって変わる目的にとらわれない心を目指します。そのような目的はかなってもかなわなくてもどうでもいいのだ(たいしたことない)と理解します。
 生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように。
高橋優太
2009年04月04日 08:42
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。
小学生の時の目的なんかどうでもいいな、と今思います(そのときは必至でしたが)。きっと今、叶って欲しいということも、10年後にはどうでもいいものになっていると思います。そんなことに時間を取られて、目の前の人参(希望)を追いかけるのではなく、理性的になろうと思います。生きとし生けるものが幸せでありますように。
高橋優太
2009年04月04日 08:58
ワンギーサ先生へ。
歩く冥想について質問です。夜、照明の光はどれくらいがよい、という基準はあるのでしょうか?僕は暗い方が目が余計なものを見ないで、足の感覚を見やすいので、暗くしてやっていますが、良いでしょうか?
まお
2009年04月04日 09:32
 皆様の悩み苦しみがなくなりますように。

高橋優太さんへ
 後悔の癖があると言っていましたが、それは今でもあるのですか?

 生きとし生けるものが幸せでありますように。
ワンギーサ
2009年04月04日 09:49
皆さん、おはようございます。
 高橋優太さんへ。暗くしてやってもいいのですが、スマナサーラ長老は、目を閉じないで行うようにと言われています。目を閉じると、何かにぶつかって危険です。目を閉じた方が、足の感覚は取り易いですが、目からの刺激に負けないように、足の動きや感覚に集中することが必要です。
あっきん
2009年04月04日 10:01
 おはようございます。
宝くじ一億円当たっても、本当の幸せは得られない。
この詩の因縁物語を紹介します。
私の家の街には、宝くじの売店が2件もできる予定になっています。不景気で夢がほしいのでしょうね。つまり、現在は夢も希望もない。
逆に宝くじは儲かるのでないかと推察されます。
清らかな心は幸せをもたらす。因果法則により宝くじより確立が高いのです。     おわり
高橋優太
2009年04月04日 11:15
ワンギーサ先生へ。
ご回答ありがとうございます。目からの刺激を気にしないようにします。足の感覚をしっかり感じて、実況中継します。ありがとうございました。

まおさんへ。
後悔する頻度はかなり減ったと思います。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
まお
2009年04月04日 14:39
高橋優太さんへ
 それはよかったですね。私も頑張ろう

 生きとし生けるものが幸せでありますように。
2009年04月04日 16:04
 ワンギーサさんへ。
 会話をしているとき、相手の顔を見ます。表情を確認します。笑っているな。さらに、見続けます。動揺します。目がオロオロします。相手のお腹を見ます。落ち着きます。
 会話をしているときは、どこを見るべきでしょうか。
ワンギーサ
2009年04月04日 18:33
ツヨシさんへ。
相手の目を見ているのがいいのかもしれませんが、少し難しいかも知れませんね。相手の鼻の先あたりを軽く見るのはどうでしょうか。自分でいろいろ試したらどうでしょうか。自分の心から恐怖心がなくなれば、自然に相手の顔を見て話したり、聞いたりすることができるようになります。慈悲の心を育て、煩悩をなくすようにすれば、恐怖心が少なくなります。

あっきんさんへ。
面白い短歌とその因縁物語ありがとうございます。また、このようなコメントお願いします。
2009年04月05日 04:28
ワンギーサさんへ。
ためしてみます。
身の丈修行者
2015年04月23日 07:21
家庭に仕事に趣味にあれこれに・・と生きていた頃は、10分の座る冥想が限度に思った事がありました。
何が大事かを学び、選別し不要に思ったものを捨てた所、現在1時間の座る冥想の時間を作れています。
少ない資金も浪費しなければ、先日かなり遠方での宿泊冥想会に参加する予算を持てました。
7時間↑は睡眠時間を確保しないと・・の自分でしたが、現在6時間↓、朝5時を目安に体調を崩す事なく起きれています。
大事に思う事を実践していると、結構出来るものだなと実感しています。
時間を大切にして、生かして参りたいです。

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