瞑想の静寂楽しむ賢者たちあの神々も彼らを敬う

ダンマパダ 181

賢者たちは瞑想に熱中して
欲のない寂静を楽しむ
神々も彼等を敬う
このような気づきある正覚者たちを


○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200806/article_9.html

○スマナサーラ長老の法話(日本テーラワーダ仏教協会ホームページより)

http://www.j-theravada.net/howa/howa96.html

○今日のコメント

 今回の詩の訳は3行目を、前回は「 神々も彼等を羨む」を「神々も彼等を敬う」に変えました。パーリ語のピハヤティの辞書の訳は、「羨む、うらやむ、望む、熱望する」であり、「敬う」はないのですが、意味するところは、「羨む」より「敬う」だろうと思い直しました。

 話は変わりますが、「無門関」という禅の公案集があります。その29番に「風に非ず、幡(はた)に非ず」という話があります。「六祖はある時、法座を告げる寺の幡が風でバタバタ揺れなびき、それを見た二人の僧が、一人は『幡が動くのだ」と言い、他は『いや、風が動くのだ』と、お互いに言い張って決着がつかないのを見て言った、『風が動くのでもなく、風が動くのでもない、あなた方の心が動くのです』。これを聞いて二人の僧はゾッとして鳥肌を立てた。」(「無門関」岩波文庫P123)

 私は昨日、お寺でろうそくを灯して瞑想を始めました。目を閉じて瞑想をしていましたが、風のためにろうそくの火が揺れて、目がちらちらしました。それが気になったため、ろうそくを消して再び、目を閉じて瞑想を始めました。しかし、ろうそくを消したのにも関わらず、目がちらちらしていました。そうか、ろうそくの火が揺れていたのではない。私の心が揺れていたのだと気がつきました。その時、上の公案を思い出しました。

 欲や怒りや無知などの煩悩が静まると、心には静寂が訪れます。その時の穏やかな平安は何にも比べられない楽しみなのでしょう。神々もそのような賢者たちを敬うでしょう。

○瞑想の静寂楽しむ賢者たちあの神々も彼らを敬う

~わたしは幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとしいけるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年05月13日 05:05
ワンギーサさん、おはようございます。安らぎ、喜びを目的にしてしまうと、それは欲なので瞑想になりません。確かに、欲、怒り、無知が機能しなくなれば、シーンとした湖のように静寂、不安なき平安、普段味わえない喜びの世界が生じます。しかしそれが欲を生み出してしまう。自分勝手に思い描いた「心の落ち着き」などを一切想定せず、一方、かつて味わったことの無い「平安、喜び」が生じてもそれにとらわれず、ただただ「確認作業」することが極めて大切ですね。難しい作業ですが、そこが正念場だと思って工夫します。有難うございました。
ツヨシ
2009年05月13日 05:17
おはようございます。私は今、カエルの声が聞こえます。字を読みます。音が消えます。字を読み終えます。光が消えます。声が聞こえます。感覚が揺れているのだと気がつきました。賢者たちを敬います。
あっきん
2009年05月13日 07:18
おはようございます。
自己を観察して、瞑想します。
髙橋優太
2009年05月13日 10:22
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。
歩く瞑想をしているとき、足の裏にゴミがつきます。気になります。怒ってます。「汚れているのではないか。」と妄想が広がります。ゴミを足から取り除きます。ゴミはついていないけど、ついていた場所が気になります。妄想で心が動きます。足の動きを実況します。
身の丈修行者
2015年05月09日 07:58
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「欲や怒りや無知などの煩悩が静まると、心には静寂が訪れます。その時の穏やかな平安は何にも比べられない・・」心に響きます。冥想実践をする前と後では心の平穏さが違うように感じています。
日常で何時も実教中継が出来る事を目指して精進したいです。

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