一切の悪を為さずに善をなせ心を清めよこれが仏教

ダンマパダ 183

一切の悪業をなさないこと
善業をつむこと
己の心を清らかにすること
これが諸仏の教えである


○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200807/article_1.html

○スマナサーラ長老の法話(日本テーラワーダ仏教協会ホームページより)

http://www.j-theravada.net/howa/howa98.html
一言で知る仏教のすべて。 釈尊もインスタントの方が好きでした。

○今日のコメント

 仏教のすべてを、183番の詩で述べています。それを短歌でまとめると、冒頭の短歌になりました。皆様はもっと上手にこの詩を短歌にまとめてコメントに書いて見て下さい。
 前回の「この詩で学ぶこと」には、「悪業をなさないこと」を五戒を守ることにしました。また、「善業をつむこと」は慈悲の瞑想をすること。「己の心を清らかにすること」はヴィパッサナー瞑想をすることとして解説しました。

 話は変わります。「無常は分かるが、無我が分からない」と質問する人がありました。今、私が考えていることは、八正道を実践している時は無我であるのだということです。そのことに気づけはよいのです。(いつも無我なのですが、この時が分かりやすいのです。)
正見を実践するとき、正見だけがあり、無我なのだ。
正思を実践するとき、正思だけがあり、無我なのだ。
正語を実践するとき、正語だけがあり、無我なのだ。
正業を実践するとき、正業だけがあり、無我なのだ。
正命を実践するとき、正命だけがあり、無我なのだ。
正精進を実践するとき、正精進だけがあり、無我なのだ。
正念を実践するとき、正念だけがあり、無我なのだ。
正定を実践するとき、正定だけがあり、無我なのだ。

○一切の悪を為さずに善をなせ心を清めよこれが仏教

○お知らせ
 明後日、5月17日の兵庫県三田市のマーヤーデーヴィー精舎お布施法要に参加するため、5月16日、17日、18日のブログ掲載はお休み致します。

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年05月15日 04:57
八正道を実践します。
ツヨシ
2009年05月15日 05:03
「悪やめ善して清まる仏教」と、まとめます。
2009年05月15日 05:23
ワンギーサさん、おはようございます。「悪を捨て善に精進清らかな心命だこれが仏教」「悪を捨て善に精進生き甲斐は心の掃除これが仏教」こんなところです。ところで、「無常がわかって、無我がわからない」のがどうしてだかわかりません。普段身の回りの現象は明らかに「変化」してます。しかし、何か変化しない「自分」を無意識的に想定して見ると、「無常だが無我ではない」という思いに至るなるおそれがあります。確かに、身体の感覚も次々と変化してますが、それを認識する自分も実は変化してます。原理的に変化しない「我」があるとすると全ての認識が不可能なはずだと思います。有難うございました。
2009年05月15日 05:46
「悪を捨て善に精進目的は心清らかこれぞ仏教」「悪を捨て善に精進目的は心清らか仏蛇の教え」というのもあります。
髙橋優太
2009年05月15日 06:03
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。
今日のニュースで小学生が踏切で転倒した女性を救出するというニュースを見ました。自分も負けずに善をしようと思いました。生きとし生けるものが幸せでありますように。
2009年05月15日 06:15
何故「我、確な自分」がいると考えてしまうのでしょう?ひとつの要因に「記憶」があるかと思います。そして、よかった思い出、悪かった思い出があります。実はそれらにかなりの「価値」を置いてます。アイデンティティみたいなもんだと思います。その「価値」を転倒させてみると、過去から連なっていたはずの確かな「自分」がもろくも崩壊します。記憶など実にいい加減なものだと思います。確かな「自分」を裏付けるものなどどこにもないのでしょう。有難うございました。
あっきん
2009年05月15日 07:52
おはようございます。
”清く・正しく・美しく”これは宝塚関係ない!?
”清く・正しく・知恵の完成者になる”
解説:修行を訓練すれば、悟りの光があらわれるでしょう。一時的にスポットライトをあびるのではありません。そして、その姿は宝塚より美しい。
ワンギーサ
2009年05月15日 09:03
皆さん、おはようございます。
ツヨシさんとあっきんさんをミックスして、
「悪やめ、正しく、清らかに、これが仏教」
辛酸じゃなかった新さんへ。
無我は理屈で理解することも大切ですが、私が今回言いたかったことは、無我を実感することです。
2009年05月15日 11:04
ワンギーサさん、ご指摘有難うございます。もう一つ作ってみました。キリがないですね。「悪を絶ち善を極めよ最上は清らか心(だ)仏蛇の教え」。有難うございました。
宝勝忠正
2009年09月08日 10:51
ワンギーサ様、初めまして。
毎日、このページで勉強させていただいております。
誠に有難い限りです。出典を明らかにした上で、法話に使用しても宜しいでしょうか。ご許可願えれば幸いです。

ところで、文中の「無我」についてお尋ねしたいのですが、宜しいでしょうか?
宮元啓一先生は、「無我」ではなく「非我」であると仰って居ります。この問題は長らく決着のつかない問題ではありますが、私自身とすれば、言葉を大切にする哲学者(インド思想史がご専門)の宮元先生の説が正しいと思っています。
ワンギーサ
2009年09月08日 19:54
宝勝忠正様、初めてのコメントありがとうございます。このブログの法話を活用することは自由です。仏陀の真理はだれのものでもありません。人々の幸せのために活用するのならば、大いに活用して下さい。
「無我」についての御質問については、この言葉のパーリ語はanattanですが、それを無我と訳そうと非我と訳そうとあまり変わりがないと思います。この言葉は、「変わらない実体はない」という意味なのです。例えば、変わらない魂があるなどという考え方を否定したものなのです。ただ、非我を強調する人の中には、仏陀のanattanを否定したい人もいるようですから、注意が必要です。
身の丈修行者
2015年05月10日 12:48
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説・コメントを拝見し「・・無我を実感すること・・」自分なりに感じました。
八正道を身の丈で実践している時はあーじゃこーじゃ思考が回らず、自我を思う機会は少ない印象を持っています。
精進して参りたいです。

この記事へのトラックバック