金が降っても満足しない欲望は少楽にして苦痛であるのだ

ダンマパダ 186,187

金貨の雨が降っても
欲望の満足はない
欲望は少楽にして苦痛である
そのように賢者は知っている (186)

天界の楽しみも
賢者の喜びにはならない
渇愛の滅尽が
仏陀の弟子の喜びである (187)


○前回の「この詩から学ぶこと」

 186番について
 悪女は欲望のように二つのものを男たちに与える。一つは一瞬の喜びであり、もう一つは長い地獄のような苦しみである。賢い男はその女の本性を見抜き、その女から去るが、愚かな男は一瞬の喜びを欲しさに、いつまでも地獄の苦しみの中にいることになる。
 欲望が一瞬の喜びを与えることなし、地獄の苦しみだけであるならば、どんな愚か者も欲望にしがみつくということはないのであるが、現実はそうではない。
 ところで、なぜ欲望はこのように二つの特徴をもつのか。それは上の詩にあるように、欲望には満足ということがなく、際限を知らないからである。真実を知ればわれわれは欲望には付き合いきれないのである。

 187番について
 生命は六道すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天のいずれかの世界で生きている。それぞれの世界の特徴を苦と楽で示すと次のようになる。
 地獄は最大の苦のみの世界、楽はない。
 餓鬼は常に飢餓に苦しむ、欲しい物が得られない世界。
 畜生は禽獣・虫魚などの世界、常に食べ物を求め、外敵に怯えている世界。
 修羅は争いと憎しみの世界、楽しみや喜びはない、
 人間界は苦も多いが、たまには楽もある。修行ができる生命である。
 天界は楽しみは多く、苦しみはほとんどない。楽過ぎて修行ができない。喜び消えると死ぬ。
 賢者は天界の楽しみは最高の幸福ではないことを知っているので、喜びにはならないのである。渇愛の滅尽はこそが、解脱であり、涅槃であり、最高の幸福への道であることを知って、それを喜ぶのである。

○スマナサーラ長老の法話(日本テーラワーダ仏教協会ホームページより)

http://www.j-theravada.net/howa/howa102.html
 明日を楽しめる保証はない ~まだ欲しいのに賞味期限は切れている~

○今日のコメント

 今日のコメントは今回の詩とは直接関係ありません。他人の欠点が気になることがあります。そのような時は、他人の欠点よりは、そにことが自分に問題ではないかと、注意を自分に向けた方がよいのです。それが自分の為にも、他人の為にもなります。そして皆が平和になります。これが今日のコメントの前書きです。

 だいぶ以前、私は「武術」を習っていました。その時、「残心」ということを習いました。「残心」とは何か。「ある動作をしたら、その動作に心を残す」ということです。つまり、ある技を掛けたら、その技の結果を確認することです。当時は「残心」とは、相手が技で倒れたかどうか確認することだと思っていましたが、ヴィパッサナー瞑想を習ってから、「残心」とは実況中継ではないかと思うようになりました。

 私たちの日常生活の行動は、身体の動きよりは、心がいつも先に飛んでいて、動作が終わらないうちに、次の行為に心が飛んでいるのです。ですから、例えば引き出しを開けて、食器を取り出すと、心は食器の置き場所のことを考えています。ですから、引き出しを閉めるのを忘れて、引き出しは開けぱなしです。そのようなことが、次から次に続くのです。全て動作、行為は中途半端になるのです。これでは全て行為は完成せず、失敗に終わるのです。

 このことを他人の行為を見て気が付いたのです。しかし、はじめに述べましたように、これは私のあり方なのです。ヴィパッサナー瞑想を学んでいるのに、この有様です。しかし、めげません。今から挑戦です。挑戦して、挑戦します。

○金が降っても満足しない欲望は少楽にして苦痛であるのだ (186)
○天界の楽しみ喜び小さすぎ欲の滅尽は最高である (187)  

~わたしは幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
 

この記事へのコメント

ツヨシ
2009年05月21日 04:38
挑戦します。
2009年05月21日 04:47
ワンギーサさん、おはようございます。私の場合「欲望のみを追いかけて」人生を不幸にする人の例をウンザリするほど見てます。欲望の苦をあまり感じないのは、さらなる欲望の世界へチャレンジしてる場合が多いです。そこには合理性も論理性もないので行き詰まって自己破綻します。だから私は反面教師的に、欲望を追求する世界の危険を察知できました。ところで「欲望は満たせない」というと大抵の人は「そうだ」と言います。どこまで本音でそう考えられるかが大切な気がします。有難うございました。
髙橋優太
2009年05月21日 06:46
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。
何があっても諦めないで、挑戦する。今まですぐに諦めて中途半端な性格でしたが、勉強も瞑想も何事も諦めないで挑戦するということの「かっこよさ」を自分も身につけます。
ワンギーサ先生、昨日はありがとうございました。生きとし生けるものが幸せでありますように。
あっきん
2009年05月21日 07:56
おはようございます。
コンビニで新発売とか、おにぎりが全品\100となっているとつい買いすぎてしまう事がある。賞味期限はいつまでかな・・・ 必要な分だけ買います。
2009年05月21日 10:10
ワンギーサさん、昨日のこと、自分なりに納得できました。心の汚れている私たちの判断は基本的に正しくありません。正しく判断するためには、智慧を開発する必要があります。智慧を完成し、全ての煩悩を滅したお釈迦様だけが、完全に正しい判断つまり「道徳」を語ることができるのだと思います。その意味で、道徳は真理です。真理を知らず正しい判断はできない…すっきりしました。有難うございました。
ふくろう
2009年05月21日 18:09
ワンギーサさん、こんばんは。

 六道の話題が出たので御訊きしたいのですが、上座部仏教の輪廻転生観において、互いに「界」が交差しているという解釈は存在しますか。つまり、人間界と天界が一部交差しているとか、地獄と人間界も一部交差している、というようなことです。
 顕著なのは、人間界と畜生界の場合、人間界に畜生界が含まれているように思えるのですが、つまり、質問の要点は、「界」ごとに「完全棲み分け」されているのか否か、上座部仏教の世界観が知りたいということです。 
 また、六道は人間のこころの中に地獄から天界まであって、悪い方に落ちていかないように精進するというような世界観もあるようですが、上座部仏教ではそのような世界観はありますか。

 少し脱線気味の話題ですが、上座部仏教のことをいろいろと知りたいが故の質問です。宜しくお願いします。
ワンギーサ
2009年05月21日 22:31
ふくろうさん。こんばんは。せっかく質問していただきましたが、私にはお答えする根拠がありませんので、お答えできません。
瞑想初心者
2009年05月21日 23:39
ワンギーサ先生、こんばんわ。
今日お寺に参った者です。お経やパーリ語について貴重なアドバイスを頂き、本当にありがとうございました。頑張って勉強していこうと思います(瞑想も)。
ふくろう
2009年05月22日 11:38
ワンギーサさん、こんにちは。

 今回のような質問は、関心があるのなら、自分で調べ、検討するのが筋なのかも知れません。また、こころをきれいにするという修行の目的には、余計な事なのかも知れません。
 
 また、宜しくお願いいたします。

 生きとし生けるものが幸せでありますように。
身の丈修行者
2015年05月11日 07:57
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「他人の欠点が気になる・・他人の欠点より・・注意を自分に向けた方がよい・・自分の為にも、他人の為にもなります・・」心に響きます。
自分以外の何かが悪い・・と思うと(他人の欠点に対する優越感が出るのか)怒りや傲慢?等がで易いように感じます。そういう時こそ自分を見れるように精進したいです。

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