何ものも持たないゆえに心から気楽に生きる光音天のごとく

ダンマパダ 200

真に気楽に生きる
われらは何も持たないゆえに
喜びを糧として存在しよう
天界に住む光音天の如く


 訳注:光音天という神々は喜びをエネルギーにして生きていると言われています。ですから、明るく喜びを持って生きている人々のそばに集まってくるそうです。暗く怒りや憎しみのある人々には近づきません。

○この詩から学ぶこと

 幸福とはなにか? 昨日の続きです。
 人々は何かを持っていることが、幸福だと思います。
 または、何かを持てることが幸福だと思っています。
 ですから、今は何でしょうか?エコカーを持ちたいと思っているのでしょうか。
 大型ナントカテレビを欲しいと思っているのでしょうか。
 または、大型エコ冷蔵庫でしょうか。
 これらは政府の勧める幸福なのかもしれません。エコカーには優遇税制があり、エコ冷蔵にはポイントがつきます。思い出しました。休日には高速道路を使って、どこかに遊びに行くことも政府推奨の幸福です。

 しかし、これらが本当の幸福でしょうか。この詩では「われらは何も持たないゆえに」「真に幸福に生きる」と述べています。

 何かを持っていることが本当に幸福でしょうか。何かを持てるようになることが幸福でしょうか。前回の「この詩から学ぶこと」でも説明しましたが、何かを持っていることで悩みができ、苦しみが増えるのです。持っているものはどんどん古くなり、終いには壊れます。あるいは盗まれないように注意しなければいけません。持ってない人が持とうとすると、そのためのお金が必要です。そのための仕事をしなければなりません。他のしたいことを犠牲にして、働かなければなりません。苦労は増えるのです。途中で仕事がなくなれば、欲しいという夢は破れ、苦しみがあらわれます。結局、持っている、持ちたいという欲望は幸福にならないのです。

 では、「何も持っていないこと」「何も持とうとしないこと」は幸福でしょうか。上に書いたことの逆のことは言えます。何もなければ、古くなったり、壊れたり、盗まれたりしません。何にも欲しがらないのですから、得られないことによう悩み苦しみは現れません。連休などに、どこかに遊びに行って、家に帰ってきた時、家が一番いいと思いますよね。ですから、どこかに出かけることが幸福なのではありません。何か欲しいものが幸福にする訳ではないのです。

 欲しいものがないとき幸福を感じるのです。例えば、私は高級な背広が欲しいと思って購入したことがあります。その背広を着て出かけたときよりも、その背広を脱いでくつろいだ時の方が幸福を感じるのです。女性の場合どうでしょうか。高級な化粧品でお化粧して、出かけた時よりも、そのお化粧を落とした時の方が、穏やかな気持ちになれるのではないでしょうか。このような見解は受け入れがたいかもしれませんが、せめてそうかも知れないなと感じてください。

 以上の説明を書いて、誤解されるといけないので、老婆心で付け加えると、「何も持たない、何も欲しがらない」という意味は、「実際に何も持たない、何も求めない」という意味ではありません。必要なものは持っていてよいのです。また必要なものは求めてよいのです。ただ,執着しないということです。

 上の詩と同様の内容の言葉があります。「無一物中無尽蔵」(むいちもつちゅうむじんぞう) 宋代随一の詩人であり、すぐれた禅者でもあった蘇東坡の言葉です。直訳すれば、「何もないことの中に、無限のものがある」ということですが、その意味は、「何にも執着しなければ、無限の幸福がある」という意味です。 八王子の禅東院(テーラワーダ仏教の戒壇のある曹洞宗のお寺)の掛軸にありましたのでここに書きました。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200807/article_11.html

○この詩に関するスマナサーラ長老の法話(日本仏教協会HPより)

http://www.j-theravada.net/howa/howa108.html
 逃げる幸福 ~ものに頼る幸福は人を裏切る~

○何ものも持たないゆえに心から気楽に生きる光音天のごとく

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年05月27日 05:02
ワンギーサさん、おはようこざいます。今日の内容は難しいと思います。誤解されやすい?…まず、これを「禁欲主義」ととらえると、仏教は暗い教えになってしまいます。禁欲主義の根底には、本来はしたい欲望を無理に抑えているところがあります。それと「欲から離れる」ということはまるで異なります。怒りを抑えるのと、まるで怒らないことの違いと似てます。だから「欲から離れておおいに楽しむ」のだと思います。ところで、どうすれば「ものに依存せず、必要なものだけ」ができるのでしょうか。今現在の自分なりの答えは「慈しみ」にあります。素直に「生きとし生けるものが幸せでありますように」と思う瞬間には欲が機能せず、必要なものが自然とわかります。有難うございました。
あっきん
2009年05月27日 08:01
おはようございます。
幸せとは何か?私的に心がリラックスした時かな。
欲はキリがないからね。ここんとこ急に暑くなり、着る洋服に悩んだりするけど、結構しまってある物があるからそれを利用して考えるのも楽しかったりするのです。
髙橋優太
2009年05月27日 08:23
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。パソコンを買ったら、結局、ウイルスの対策をしたり、ネットに繋ぐようしたり返って大変でした。とくに必要でもないものを購入するといつも失敗している気がします。逆にお布施をしたときは、物に悩まされないのでスッキリした気分です。物に依存する楽しみ(という思い込み)より依存しない方が気楽だと思いました。
生きとし生けるものが幸せでありますように。一切の過ちを懺悔いたします。三宝に帰依いたします。ありがとうございました。
pun
2009年05月27日 10:38
おはようございます。今月のパティパダー発送ボランティアの日に、ワンギーサさんが誰かと仏教談義をしていたとき、「この世を肥溜めだと思わなくちゃいけない」と言っていたのを耳にしました。それから、その言葉はものすごく汚い言葉ですが、あとから考えると、とてもシャープだと思いました。鋭い。 ところで、現在、真剣勝負すべきタイミングが来ているように思います。まだそれほどでもないですが、そのこの世に対しての、本質的な洞察力をもって、私のチャレンジにも智慧を借りられたらいいかなと思っています。自分勝手なコメントで、失礼いたしました。
身の丈修行者
2015年05月13日 07:52
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「何にも執着しなければ、無限の幸福がある」心に響きます。
拝読して、僕も高級服を買った後の事を思い出しました。値段もはるもので、大切に箪笥の奥にしまわれました。いざっという時のまれにしか使いませんでした。使った後はクリーニング等メンテナンスに気を使いました。着用中は汚れないように最大限注意しました。
その結果は、もう20年超える今も箪笥の奥にある状況です。これでは本筋とは違うように感じます。
「何にも執着しなければ、無限の幸福がある」を実践して参りたいです。

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