一切の現象が苦と知るならば苦から離れて心清らか

ダンマパダ 278

すべての現象は苦だと
智慧によって見る時
苦を厭い離れる
これは清浄への道である


○この詩から学ぶこと

 この詩を理解する助けになるお経「五蘊は苦なり」(増谷文雄著「阿含経典による仏教の根本聖典」P89 南伝 相応部経典22、13)がありましたので以下に引用させて頂きます。

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊はサーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にましました。その時、世尊は、比丘たちを呼び、彼らのために説かれた。
 「比丘たちよ、色は苦である。受は苦である。想は苦である。行は苦である。識もまた苦である。
 比丘たちよ、わたしの教えを聞いた弟子たちは、そのように観て、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭いはなれ、行を厭い離れ、識をもまた厭い離れる。厭い離れることによって、欲を離れることができる。欲を離れることによって解脱するのである。すでに解脱するに到れば、わたしは解脱したとの智が生じ、わが迷いの生活はすでに終わった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じおわった。もはや、かような迷いの生活に入ることはあらじ、と知ることができる。」

 このお経にあるように、解脱した人は、自分が解脱したと分かる智が生じるようですね。ですから、人に自分が解脱したかどうか聞かなければ分からない人は、解脱してないと言うことです。ですがこのような心配より、自分は悟ったと自称しても悟ってない人がほとんどですから、このような心配は無用でしょうが。念のために書きました。

 「苦」についての仏陀の教えは「なぜ苦は偉大なる真理なのか」というスマナサーラ長老の説法をまとめたパンフレット(布施本)が日本テーラワーダ仏教協会にありますから、そちらを是非お読み下さい。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200808/article_30.html
 すべての現象苦であると一切厭い解脱する

○この詩に関するスマナサーラ長老の法話

 生命の創造者は苦である ~苦を知る人こそ苦を乗り越えられる~

1.理解しがたいが、生きることは苦である
2.現象は無常なので、苦です。
3.生命は苦にそむいて、苦に陥る。
4.生きるとは完全に負ける挑戦です。
5.苦によって生命は生かされている。

○少しでもブッダの肉声に近づくために(カタカナを3回音読して下さい。)

サッベー サンカーラー ドゥッカーティ
Sabbe    saṅkhārā    dukkhā’ti,
一切の   現象は    苦   と
ヤダー パンニャーヤ パッサティ
yadā   paññāya     passati;
その時 智慧により   見る
アタ  ニッビンダティ ドゥッケー
Atha   nibbindati    dukkhe,
その時 厭い離れる   苦
エーサ マッゴー ヴィスッディヤー
esa    maggo   visuddhiyā.
これは 道     清浄にする

○一切の現象が苦と知るならば苦から離れて心清らか 

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年07月13日 05:16
ワンギーサさん、おはようございます。経典の引用有難うございます。中山書房で『仏教の根本聖典』を買いました。引用されたのは第三章行苦説法の最初の「五蘊は苦なり」ですね。私は次の「無常なるものは苦なり」の方がしっくりきます。後で紹介させて頂きたいと思います。ところで「五蘊は苦なり」については、有名な『転法輪経』で「五固執蘊は苦である」と述べられてます。そして「聖なる真理」について「比丘たちよ、「その苦の聖なる真理は遍知されたければならない」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。」と書かれてます。苦の聖なる真理は遍知されなければならない、つまり知り尽さなければならないのですね。そのように能力を高めたいと思います。有難うございました。
2009年07月13日 05:31
増谷文雄著『阿含経典による仏教の根本聖典』第三章、「無常なるものは苦なり」(南伝相応部経典三五、三二、有験)より全文引用~~かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、ラージャガハ(王舎城)のウ゛ェルウ゛ァナ(竹林精舎)にましました。その時、世尊は、比丘たちに告げて申された。「比丘たちよ、なんじらは、これをいかに思うか。眼は常住であろうか。無常であろうか。」「大徳よ、それは無常である。」「およそ物の無常なるものは、それは、わたしどもにとって、苦であろうか。それとも楽であろうか。」「大徳よ、それは苦である。」
2009年07月13日 05:51
(続き)「およそ物の無常にしつ苦なる、変わり移ろうものを、――それはわが有(もの)である。それはわれである。それはわが我である。――と、そのように認識するのは、正しいことであろうか。」「いな、大徳よ、それは正しいことではない。」世尊は、さらに、耳についても、鼻についても、舌についても、身についても、意についても、同じような問答を繰り返された後、このように説かれた。「比丘たちよ、わたしの教えを聞いた弟子たちは、そのように観て、眼において厭い離れ、耳において厭い離れ、鼻において厭い離れ、舌において厭い離れ、身において厭い離れ、身において厭い離れ、意においてもまた厭い離れる。厭い離れることによって、欲を離れることができる。欲を離れることによって解脱するのである。解脱することを得る時、わたしは解脱の智が生じ、わが迷いの生活はすでに尽きた。清浄なる行はすでに成った。作(な)すべきことはすでに弁じおわった。さらにかくのごとき迷いの生活に入ることはあらじ、と知ることができるのである。」
2009年07月13日 06:02
三番目のコメントの最初は「およそ無常にして苦なる、変わり移ろうものを、――それはわが有(もの)である、それはわれである。それはわが我である。――と、そのように認識するのは、正しいことであろうか。」の間違えなので訂正します。
ツヨシ
2009年07月13日 19:21
 ワンギーサさんへ
 識から離れて、とは、識が無くなっているのですか?
 それとも、識への執着が無い、ということですか?
 色から識まで、離れると、何かまだ離れていないものがあるのですか?
 そのとき、思考は離れていますか?
 また、観察は離れていますか?
ワンギーサ
2009年07月13日 20:57
新さんへ、引用ありがとうございます。

ツヨシさんへ、先ず、「識から離れて」とは識への執着をなくすことです。それ以後の質問は自分で検証して下さい。
ツヨシ
2009年07月14日 05:02
 ワンギーサさんへ
 検証してみます。
身の丈修行者
2015年05月29日 13:48
生きている中で自分がしている事は苦を逃れようとしている、と分かるように身の丈で精進しています。そのお陰様か自分は凄い(?)とか肉体は尊い、みたいな発想をする事はかなり減ったように思います。
真摯に今ここの感じている事の観察をして、より苦が分かるように努めたいです。

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