一切の法は無我だと知るならば苦から離れて清らかになる

ダンマパダ 279

すべての事物は無我だと
智慧によって見る時
苦を厭い離れる
これは清浄への道である


○この詩から学ぶこと

 277番、278番、279番は仏教の重要な教えに関する詩です。それぞれ、無常、苦、無我です。
その内容を本当に理解することは、どれも難しいのですが、スマナサーラ長老は、だんだん難しくなるのですと述べておられます。無常はすべてのものは変化している。変わらないないものはないということです。これは一つ一つ調べていけば、頭では納得できます。自分が変わっていることは忘れるし、自分が年をとることを嫌がるのです。ですから本当に理解するのは難しいのです。

 一切は苦であることは、次に難しいのです。人生は苦しいことは多いは納得できますが、楽しいこともあると思うのです。しかし、無我は一番難しいのです。自分はないとはなかなか思えないのです。自分は居るという強い実感があるからです。

 そこで、ブッダの説法を聞いてみましょう。 

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊は、もろもろの比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。「大徳よ」と、彼ら比丘たちは答えた。世尊はこのように説きたもうた。
 「比丘たちよ、色(肉体)は無我である。比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、このように観て、色を厭い離れる。厭い離れれば貪欲を離れる。貪欲を離るれば解脱する。解脱すれば、解脱したとの智を生じて、<わが迷いの正はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。為すべきことはすでに弁じた。このうえは、もはや迷いの生を繰り返すことはないであろう>と知るのである。
 比丘たちよ、受(感覚)は無我である。・・・・・
 比丘たちよ、想(表象)は無我である。・・・・・
 比丘たちよ、行(意志)は無我である。・・・・・
 比丘たちよ、識(意識)は無我である。・・・・・比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、このように観て、識を厭い離れる。厭い離れれば貪欲を離れる。貪欲を離るれば解脱する。解脱すれば、解脱したとの智を生じて、<わが迷いの正はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。為すべきことはすでに弁じた。このうえは、もはや迷いの生を繰り返すことはないであろう>と知るにいたる」 (増谷文雄著「阿含経典第二巻」P24より)

 この説法を、一度だけ聞いても理解できないかもしれませんが、不思議なことに何回も繰り返し読み、時々思い出すと分かってくるものです。「読書百ぺん意おのずから通ず」とはよく言ったものです。

 余談ですが、毎日このブログにコメントしてくれます新さんは、去年の279番の詩でコメント・デビューしたようです。毎日ありがとうございます。
 
○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200808/article_31.html
 すべての事物我がないと一切厭い解脱する

○この詩に関するスマナサーラ長老の法話

魂は巨大妄想の産物である ~仏教の無我は因縁論です~

1.みな自我(魂)があると信仰している。
2.証明しないまま魂について語るのです。
3.無常イコール苦イコール無我です。
4.無我とは因縁論なのです。
5.無我を知る人は解脱に達する。

 パティパダー(2008年9月号)の「今月の巻頭法話」に掲載されています。残念ながら、まだ日本テーラワーダ仏教協会HPにはアップされてません。ですから、該当するパティパダーをお持ちでない方のために、スマナサーラ長老がまとめたポイントを列挙しておきました。

○少しでもブッダの肉声に近づくために(カタカナを3回音読して下さい。)

.サッベー ダンマー アナッター ティ
Sabbe   dhammā   anattā'  ti,
一切の  法は    無我   と
ヤダー  パンニャーヤ パッサティ
yadā   paññāya     passati;
その時 智慧により   見る
アタ   ニッビンダティ ドゥッケー
Atha   nibbindati     dukkhe,
その時 厭い離れる    苦を
エサ マッゴー  ヴィスッディヤー
esa   maggo   visuddhiyā.
これは 道     清浄にする

○一切の法は無我だと知るならば苦から離れて清らかになる

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

ツヨシ
2009年07月14日 05:09
 繰り返し読んでみます。
2009年07月14日 05:24
ワンギーサさん、おはようございます。今日も経典の引用有難うございます。そう言えば、コメントデビューしたのはこの詩からでした。今まで有難うございました。以前のコメントにて…主体―客体で見る癖がついている。しかし、はじめに「主体ありき」という考えが既におかしい(理由もなく決めつけている)。その一方で癖だから厄介にもパターン化してしまっている。そのパターンを壊すのが瞑想。瞑想で自分でもない他人でもない感覚を観察する。もうひとつは経典。最近、短い経典の丸暗記をやりはじめました。ブッダの思考パターン(経典から感じるある種の何か。時に人の心を射るような)が少しづつ心に入り込み、自分の固定思考パターンを壊してくれます。今日の経典、何度も繰り返して心に浸透させようかと思います。有難うございました。
あっきん
2009年07月14日 07:47
おはようございます。
無常・苦・無我が真理なら、気がついてないのでしょうね。潜在的に苦があるから幸せになりたいと願う訳。又自分の事が一番分からない。潜在的に思い込んで本心が自分でも分からなかったりする事もある。心のレベルを上げないとね。
2009年07月14日 09:02
無常、苦、無我…「変化こそ本質だ」「人生は苦しみの連続だ」等、仏教的?なことを発見したり本で書いたりする人は世の中に結構います。ブッダとの決定的な違い。それは『一切』ということばに現れていると思います。私の知る限り誰も「全ての事物が無常」とは断言してません。このことに留意したいと思ってます。
髙橋優太
2009年07月14日 10:36
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。
世の中の考えは「自分がある、いる」前提で成り立っていると思いました。恋愛とか、学歴とか、容姿とか、いろいろなことで悩み苦しみますが、理性で観察すれば悩む必要もないことだと思いました。今日の詩を完全に理解できるよう精進いたします。ありがとうございました。
K.Makinouchi
2009年07月14日 11:05
ワンギーサさまへ質問があります。
一切のsankhaaraaについて、277番で無常と言い、
278番で苦と言い、
一切のdhammaについて279番で無我と言っています。
sankhaaraaもdhammaも「ものごと」「現象」という意味で使っていると理解しています。
sankhaaraaとdhammaの言葉の使い分けにはどのような意図がありましょうか?
Sankhaaraa:fabrications、形成されたもの、組み立てられたもの、現象
Dhamma:phenomena、現象
K.Makinouchi
2009年07月14日 11:39
もうひとつ質問があります。
前回のワンギーサさまの解説に書いてあった、『仏教の定義では「無我」とは、「変化しない常住の実体がない」という意味です。』のコメントは混乱を鎮める貴重な情報でした。
しかし、スマナサーラさんの図書などには修飾語なしにいきなり「私はいない」と言うことがとても目立ちます。わざとそのように言いたがっているように感じます。
「私」というものは概念であって、捏造であり、妄想であり、私がいると思うのは邪見である・・・としています。これは、私にとっては、混乱の原因となり、先へ進む上でつまづきとなっています。
『仏教の定義では「無我」とは、「変化しない常住の実体がない」という意味です。』のとおりにスマナサーラさんの表現を翻訳理解すればよろしいでしょうか。
ワンギーサさまへお聞きするのは筋違いと切り捨てずにご指導お願いします。
ワンギーサ
2009年07月14日 13:10
K.Makinouchiさんへお答えします。
質問:「sankhaaraaとdhammaの言葉の使い分けにはどのような意図がありましょうか?」
回答:同様な意味だと思いますが、私の理解ではダンマの方がサンカーラより広い概念で、法則という意味もあります。無我は、無常、苦より深い意味があるのかもしれません。ブッダの使われた言葉ですから、違いがないわけはないのです。現在の私には違いを詳しく説明はできません。ちなみに、大乗仏教の「空」は「無我」を妄想した概念だと思っています。
質問:『仏教の定義では「無我」とは、「変化しない常住の実体がない」という意味です。』のとおりにスマナサーラさんの表現を翻訳理解すればよろしいでしょうか。
回答:私が書いた無我の定義はスマナサーラ長老の本のどこからか引用したものです。どの本か覚えていません。スマナサーラ長老がいつも仰ることだからです。その通りに理解すればよいのです。無我を「私はいない」と表現するのは、その意味が私たちの思い込みに一番インパクトのある表現だからです。それが素直に受け入れられれば、無我を受け入れられるからです。
K.Makinouchi
2009年07月14日 21:23
ワンギーサさま
ご丁寧にお答えいただき感謝申し上げます。
自分の心を覆っている汚れを丁寧に除いてゆけば、最初は微かにではありますが灯明が現れ、それを頼りにお釈迦さまが示してくれた道案内に従い、道を進みます。
日々汚れを除きながら進んで行けば、自灯明は揺るぎのない拠り所となって、進むべき道を指し示してくれるでしょう。そのように理解しています。
林田明大
2009年07月16日 02:53
 お久しぶりです。
 折しも、私のブログに、コック見習いの大量のじゃがいもむきの話を書きましたが、
「これでもかといわんばかりに頑張っている(我を張っている))私が無い境地」
 に通じる話でした。
 言葉の定義の違いが、お互いの理解を妨げる壁になりますね。
 いつも、いいお話をありがとうございます。
ワンギーサ
2009年07月16日 09:18
林田明大先生、コメントありがとうございます。
先生のブログ(http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/)で「『ただ、やる』と平常心」を読ませていただきました。無我の理解は、「ただ、やる」の実践でその時の感覚から理解することも重要ですね。良いアドバイスありがとうございました。
身の丈修行者
2015年05月29日 13:54
自分なんて存在しないと分かると、諸々の問題は成り立たなくなり、今ここの連続になる・・ようなニュアンスを感じます。
反対に自分がいると思いますと→自我になりして自分が嫌な思いをした事に対する怒りが出てそれへの対処行動等々が発生するように思います。
無我の方で智慧がつくように、感じている事の実況中継実践を行ってまいります。

この記事へのトラックバック