欲の森恐怖の森を切り倒し欲望のない涅槃者であれ(283)

ダンマパダ 283、284

森を切り倒せ、木ではない
森(欲)から恐怖が生まれる
森も繫みも切り倒し
比丘たちよ、欲のない(涅槃)者であれ(283)

欲の繁みが切り取られない限り
女への男の欲が少しでもあれば
乳を飲む子牛が母をしたうように
男は女に執着する (284)


○この詩から学ぶこと

 この詩は、パーリ語を知らない時はよくわからないものの一つでした。中村元先生の訳は次の通りです。「一つ樹を伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。」

 パーリ語の辞書を引くようになって、VANAに森と欲という二種類の意味が分かりました。それで「森を切り倒せ、木ではない」の言う意味が分かったのです。VANAと言っても木がたくさん生えている森のことではなく、欲、欲望を切り倒せということだと、ブッダは言われたのです。

 これはブッダが説法を始めるときの、聴衆に向かって話されたジョークだと理解して、私は前回の解説を書きました。ところが、スマナサーラ長老は、お釈迦さまの「なぞなぞ」だとしてこの詩に関する法話をされています。「森を伐採せよ。しかし、樹を切るなかれ。」 樹を切らずに森は伐採できません。「どのようにして森を伐採するのか?」 これがなぞなぞです。

 スマナサーラ長老は、単純にVANAには森と欲という二種類の意味があるとしないで、樹でなく森を伐採する必要性を述べた後に、欲、煩悩、心の汚れについて述べられています。ここでは詳しく紹介できませんが、日本テーラワーダ仏教協会の機関紙パティパダー2009年1月号の巻頭法話に記載されています。そちらをお読み下さい。パティパダーを入手できない方は、日本テーラワーダ仏教協会のホームページで読むことができます。しかし、この号はまだアップされてませんのでしばらくお待ち下さい。

 この「なぞなぞ」のヒントが次の行です。「VANAから恐怖が生まれる」 森から恐怖が生まれますが、恐怖は何から生まれるかよく考えると、それは煩悩から生まれるのです。煩悩のない人には恐怖はありません。(その理由は、前回も説明しましたからここでは書きません。)そうすると、VANAは森ではなくて、欲(煩悩)だったのです。

 実は、この詩はかなり複雑なのです。樹がたくさん集まって森になります。森の樹の根元には下草や繁みがあります。いろいろな煩悩があります。一つの煩悩なければ大きな力にはなりませんが、それらは無知、無明といわれる煩悩で森のような煩悩の群れができます。また下草、繁みなどは潜在煩悩のようなものです。いつもは表に現れなくとも、条件が整うと、刺激があると現れます。これらすべてを根こそぎ切り倒す必要があるのです。

 次の284番は、切り残された、下草や繁みは、樹が切り倒されるとどんどん成長始めることについて述べています。下草や繁みは切り残された煩悩です。ここでは性欲について述べられています。性欲は生きる上に必要、不可欠なものではないことを理解すべきです。性欲は単なる妄想の産物なのです。前回説明しました。異性の居ない道場などで修行をして、性欲がなくなったように思っても、それなりの刺激があれば、また現らわれます。まだ克服されていないということです。それを子牛が母牛をしたうという例で説明しています。ですから、どんな小さな煩悩でも、軽視しないで、克服するようにすべきなのです。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200809/article_4.html
 恐怖が生まれる欲望の森ニッバーナのため切り倒せ

http://76263383.at.webry.info/200809/article_5.html
 解脱するまで性欲あれば男は女に御執着

○この詩に関するスマナサーラ長老の法話

樹を残し森を伐(き)る方法 ~組合をつくるから煩悩は怖い~

1.お釈迦さまも時々、なぞなぞで語られる。
2.悪業も一個なら力が弱い。
3.罪は群れを作って際限なく危険になる。
4.善心所は群れをつくると解脱に達せられる。
5.群れをつくるから、微罪にも気をつけるべきだ。

 パティパダー(2009年1月号)の「今月の巻頭法話」に掲載されています。残念ながら、まだ日本テーラワーダ仏教協会HPにはまだアップされてません。ですから、該当するパティパダーをお持ちでない方のために、スマナサーラ長老がまとめたポイントを列挙しておきました。

○少しでもブッダの肉声に近づくために(カタカナを3回音読して下さい。)

ワナン   チンダタ  マー ルッカン
Vanaṃ    chindatha  mā   rukkhaṃ,
森(欲)を  切る   ではない  木
ワナトー ジャーヤテー バヤン
vanato   jāyate      bhayaṃ;
欲から 生まれる    恐怖が
チェートゥワー ワナンチャ ワナタンチャ
Chetvā      vanañca    vanathañca,
切って      森(欲)も  草むら(欲)も
ニッバナー   ホータ ビッカヴォー
nibbanā      hotha  bhikkhavo.(283)
欲のない(涅槃) あれ 比丘たちよ

ヤーワ ヒ   ワナトー   ナ  チッジャティ
Yāva   hi   vanatho    na   chijjati,
限り  実に  草むら(欲) ない 切られる
アヌマットーピ ナラッサ ナーリス
aṇumattopi    narassa  nārisu;
微量  でも  人々の  女性において
パティバッダマノーワ ターワ  ソー
Paṭibaddhamanova   tāva     so,
執着した 心 ように それだけ 彼は
ワッチョー キーラパコーワ マータリ
vaccho    khīrapakova   mātari.(284)
子牛が   乳を飲むように 母において

○欲の森恐怖の森を切り倒し欲望のない涅槃者であれ(283)
○少しでも性欲あれば男らは子牛のように執着残す(284) 

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

ツヨシ
2009年07月18日 05:24
どんな小さな煩悩でも、軽視しないで、克服してみます。
2009年07月18日 05:30
ワンギーサさん、おはようございます。私は輪廻のメカニズムのように思います。木をひとつの生命と捉えると、木を伐採することは「死」になります。しかし、森というシステムがある限り、また新たな木が成長します。人生の問題は肉体の死ではなく無明と渇愛を滅しない限り解決できない。つまりいくら木を伐っても森がある限りダメなのでしょう。森がある限り、性欲が起こります。木を一人の女性に喩えるならば、ある女性への欲をなくしても、また次の女性に欲望してしまいます。現に知り合いの探偵によれば、夫の浮気調査は一向に衰える兆しがないそうです。ただ、生きることを肯定し(解脱を考えてない)、より心穏やかに過す目的なら、不倫や異常な性欲に注意する限り「性欲や性行為」は否定される対象ではないでしょう。一方、悟り、輪廻からの解脱を目的とした場合、生きることを肯定した「性行為」も性欲も「完全に否定されるべき」対象になる。その辺は混同しないようにしたいと思います。有難うございました。
身の丈修行者
2015年05月30日 10:40
私は男ですが「性欲」が強いほど修行の妨げになるなと実感しています。今日も出先の駅で、若い女性に見とれそうになりました←以前よりその若い女性は自分の好みの外見なのか確認したい・・と見つめてしまう?時がありました←既にすでに妻子持ちで怪しいですよね・・
「性欲・性欲・性欲」とサティを入れて、引っ張らないように注意しています。戒めたいです。

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