大楽を満たすためなら賢人は小さな楽を捨て去るだろう

ダンマパダ 290

少量の安楽を喜捨することで
広大な安楽を見るならば
広大な安楽を求める賢者は
少量の安楽を献上しよう


○この詩から学ぶこと

 この290番の詩から305番の詩まで、「第21 雑の章」になります。

 この詩は、私たちが度々唱える「宝経」に縁のあるものです。大いに繁栄していたヴェサーリー町が、ある年、大変な凶作に見舞わました。大飢饉になり、悪疫が流行し、悪鬼が横行しました。人々は釈尊がおいで頂ければこの三恐怖からまぬがると、釈尊が来て頂けるように、王に申しあげました。王は直ぐ使者を出し、釈尊の来駕を依頼しました。釈尊は応諾され、500人の比丘と竹林精舎を出発されました。釈尊がヴェサーリーについた時は、アーナンダ尊者に、「宝経」を唱えるように命じました。また梵天や帝釈天ともにお迎えになりましたので、悪鬼は逃げ去り、疫病はなくなり、釈尊に従ってきた人々は、ヴェサーリーの人々に食べ物を恵んだので、空腹の苦しみから、のがれられました。助けられた人々は人々は釈尊の大徳を讃えましたが、釈尊は「過去世において、私がサンカというバラモンであった時、スシーマ仏に供養した結果であると述べられ、290番の詩を述べられたということです。

 この詩の因縁物語を調べてみると、始めに理解していた詩の意味となかなか結びつかないのでした。pariccāgāには「捨てること」という意味に取っていましたが、「喜捨」という意味もあります。因縁物語との関係で言えば、「喜捨」の意味ならばわかりやすいのです。しかし、そうすると前回の訳と意味が少し異なります。現段階ではどちらが正しいかわかりません。どちらも正しいのかもしれません。スマナサーラ長老の解説は前回の訳に近いと思います。詩の言葉だけで解釈すれば、前回の訳の方が正しと思います。現在は皆様の判断のお任せいたします。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200809/article_10.html
 大きな欲を満たすためなら小さい欲は捨てられる

○この詩に関するスマナサーラ長老の法話

 苦労しないで楽に達する道

1.苦労して楽に達する道は正しくない。
2.仏道は小楽から大楽に達する教えです。
3.仏教は幸福を否定しません。
4.世界は不幸になる道を幸福な生き方だと勘違いしている。
 
 パティパダー(2009年7月号)の「今月の巻頭法話」に掲載されています。残念ながら、まだ日本テーラワーダ仏教協会HPにはまだアップされてません。ですから、該当するパティパダーをお持ちでない方のために、スマナサーラ長老がまとめたポイントを列挙しておきました。

○少しでもブッダの肉声に近づくために(カタカナを3回音読して下さい。)

マッタースカパリッチャーガー
Mattāsukhapariccāgā ,
少量の 楽の 喜捨
パッサー チェー ヴィプラン スカン
passe    ce    vipulaṃ   sukhaṃ;
見る    もし  広大な    楽を
チャジェー マッタースカン ディーロー
Caje      mattāsukhaṃ   dhīro,
献じる    少量の 楽を  賢者は
サンパッサン ヴィプラン スカン
sampassaṃ   vipulaṃ   sukhaṃ.
正観する    広大な   楽を

○大楽を満たすためなら賢人は小さな楽を捨て去るだろう

~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年07月23日 05:02
ワンギーサさん、おはようございます。pariccgを「捨てる」と「喜捨する」の両方でとるのは無理なのですか?この因縁物語で息子スシーマは出家し悟りを得て、その後涅槃に入りました。父のサンカは出家した息子スシーマの安否を気遣い各地を歩いたすえ、息子の遺骨が収められてる仏搭を見つけ、変わり果てた息子の姿に落胆してます。この時点では「息子への愛着」です。それを「捨てる」ことにより父親は仏搭をきれいに磨きあげ、仏となった息子に供物を施しました。つまり「喜捨」してます。善行為というレベルで考えると「捨てる」と「喜捨」はこのように結び付くと考えられますが、論理に無理があるでしょうか?有難うございました。
ワンギーサ
2009年07月23日 09:30
新さん、おはようございます。そうですね、「捨てること」と「喜捨」は同じこと考えればよいのです。始め私は「捨てること」とを「喜捨」とは考えていませんでしたので、すこし違うかなと思ってしまったのです。御指摘ありがとうございました。
ツヨシ
2009年07月23日 17:58
喜捨してみます。
身の丈修行者
2015年06月01日 16:20
捨てて執着を持たない事は心の成長になるように思います。
加えて聖なる方に喜捨出来たら、喜びにも繋がると思います。
身の丈ですが喜捨をさせて頂いて参りたいです。

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