父と母二人の王と王国を殺してバラモン涅槃に赴く(294)

ダンマパダ 294、295

母と父を殺し
二人の王と士族たちを殺し
王国と従臣を殺し
バラモンは苦なく行く(294)

母と父を殺し
二人の王と経聞者たちを殺し
五頭目の虎を殺して
バラモンは苦なく行く(295)


○この詩から学ぶこと

 「殺仏殺祖」(仏に会ったら仏を殺せ。祖に会ったら祖を殺せ。)という言葉が禅語にあります。ずいぶん、過激な言葉と思いましたが、その起源はダンマパダの294番、295番にあったのかもしれません。

 今回の二つの詩の、母、父、二人の王、王国と従臣、五頭目の虎、これらの言葉はすべて、ある概念を象徴する言葉なのです。ですから、それを知らなければ意味が分かりません。先ずそれを調べましょう。

 母とは、渇愛の象徴です。渇愛に縁って輪廻、生命の再生が起こるからです。
 父とは、慢心の象徴です。
 二人の王の一人の王は、無常なるものを永遠不滅と見る常見の象徴であり、もう一人も王は、死んだらすべて終わりと見る断見の象徴です。
 王国とは、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法の12処の象徴です。
 従臣とは、喜びと貪りの象徴です。
 経聞者とは、聖典に通じて知識を誇ることの象徴です。
 五番目の虎とは、解脱を妨げる五蓋の五番目、「懐疑」の象徴です。(前回は五番目の虎とはしないで、五頭の虎として、五蓋の象徴として訳しましたが、文法的に単数ですので、五番目として改訳して、誤りを訂正いたします。)

 はじめの「殺仏殺祖」は直接この詩とは関係はありませんが、書いた以上どのような意味か気になる人もおられると思いますので、一応の解釈を書いておきます。「仏や祖師というものに執着している限り、真理に気づくことが無い。」ということで、仏や祖師方の言葉にさえ執着してはいけないと意味だと理解しておきます。

 「母と父を殺し」。 なぜ、この詩は過激な言葉から始まるのでしょうか。第一にぼんやりしている私たちに喝を入れるためではないでしょうか。この言葉を聞くと、何を言っているのか考えます。またこの母は渇愛のことですが、自分の渇愛は本当の母以上に殺せないものです。私たちは渇愛で生きているのです。渇愛をエネルギーにして生きているのですから、渇愛を殺すことなどできないのです。できないことですが、渇愛こそが苦しみの原因なのです。父とは慢心の象徴です。慢心は自我から生まれます。自我は父以上に殺すことが困難なのです。

 渇愛には3種類あります。欲愛と有愛と無有愛です。有愛は「なんとしてでも生きたいとい気持ちです。」 これは「二人の王」の一人、常見に基づく想いです。無有愛は「死んでしまいたい」という気持ちで、もう一人の王の象徴である断見に基づくものです。死んだらすべて終わりだという見解です。二人の王を殺すことは、この間違った見解を捨てることなのです。渇愛を殺すために必要なことなのです。

 渇愛の第一は欲愛です。欲愛はどこから生まれるのでしょうか?それは王国なのです。眼、耳、鼻、舌、身、意に、色、声、香、味、触、法が触れる所から生まれるのです。そこには従臣(喜びと貪り)が居るのです。欲愛を殺すには、王国と従臣を殺す必要があるのです。つまり感官を防護することです。

 感覚の防護は、渇愛を殺し、解脱への道なのです。しかし、この道を妨げる五頭の虎がいます。
この虎は五蓋といわれ、欲、怒り、だらけと眠気、混乱と後悔、懐疑の5つです。 この五頭の虎を退治する必要があるのです。先ず、五頭目の懐疑を退治することが大切です。なぜならば、懐疑はブッダが教えるこの道筋を疑う懐疑だからです。ブッダの教えに対する懐疑を殺してこそ、確信を持って、この道を進めるからです。

 バラモンと言われる阿羅漢聖者は、これらのことを実践して、涅槃への道を進んだのです。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200809/article_13.html
 父母に譬える煩悩殺し虎に譬える煩悩なくす


○少しでもブッダの肉声に近づくために(カタカナを3回音読して下さい。)

マータラン ピタラン ハントゥワー
Mātaraṃ   pitaraṃ  hantvā,
母を     父を   殺し
ラージャーノー ドゥヴェー チャ カッティイェー
rājāno       dve      ca   khattiye;
王を       二人の  そして 士族を
ラッタン サーヌチャラン ハントゥワー
Raṭṭhaṃ  sānucaraṃ    hantvā,
王国を  従臣を      殺し
アニーゴー ヤーティ  ブラーフマノー
anīgho     yāti     brāhmaṇo.(294)
苦なく    行く     バラモンは   

マータラン ピタラン ハントゥワー
Mātaraṃ   pitaraṃ  hantvā,
母を     父を   殺し
ラージャーノー ドゥヴェー チャ ソーッティイェー
rājāno       dve      ca   sotthiye;
王を       二人の   そして 経聞者を
ヴェーヤッガパンチャン ハントゥワー
Veyagghapañcamaṃ    hantvā,
虎を    五番目の   殺し
アニーゴー ヤーティ ブラーフマノー
anīgho     yāti     brāhmaṇo.(295)
苦なく     行く    バラモンは

○父と母二人の王と王国を殺してバラモン涅槃に赴く(294)
○父と母二人の王と五の虎を殺してバラモン涅槃に赴く(295)


~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年07月26日 05:13
ワンギーサさん、おはようございます。あくまで個人的な感想ですが、私はブッダの智慧の深さの片鱗をかいま見たような気がします。母を殺せ、つまり渇愛を殺せだけでも凄い内容だと思いますが、親が子を殺し子の親殺しが多発している今の日本では、それは「比喩」にならないかもしれません。しかし、二人の王を天皇皇后両陛下、王国を日本国とすれば、それを滅ぼすことはやはりとんでもないことなので「比喩」だと気づくでしょう。どう猛な虎も今や保護される動物になってしまいました。虎を殺すのも怖くて考えられないことですが、動物愛護の観点からも考えられないことです。このように、当時インド人にとっての「衝撃」が2500年経った日本人にも「衝撃」を与え、考えさせてくれます。これは凡人じゃ出来ないと思いました。そして驚かすだけでなく、精密な論理で組み立てられてます。時代を越えたブッダの智慧を恐ろしく感じますが、その智慧で「母を殺せ、渇愛を根絶せよ!」ということなので、その「渇愛撲滅」にチャレンジすることに凡人が思う以上の深い意味があるのだと思います。そうであるに違いありません。有難うございました。
髙橋優太
2009年07月26日 05:39
ワンギーサ先生、新さん、皆様、おはようございます。
今日の詩はどういう意味だろうと始め思いました。解説を聞いてなるほど!と納得しました。懐疑を退治して、しっかり勉強します。ありがとうございました。
ツヨシ
2009年07月26日 09:54
実践してみます。
ボクのなつやすみ
2009年07月26日 12:56
皆様こんにちは。デカ絵文字使ってみます。何事もチャレンジですね。使い方で四苦八苦しています。
今日は座る冥想実践してみます。
ワンギーサ
2009年07月26日 15:49
皆さん、こんにちは。夏は少しあついですね。
「ボクのなつやすみ」さん、昨日からコメントしてくれてありがとうございます。私は雨安居に入り、生活のペースが少し変わりました。それで、夜ブログを更新することにしました。夏は暑くとも、身体はよく動かした方が調子はいいですね。夏休みになると、小学校や公園でラジオ体操をやっていますよね。それに参加すると早起きもでき、体操もできていいですね。チベット体操でなくていいのです。チベット体操はネットで検索すれば、やり方が分かります。
みなさん、妄想のない、念(サティ)と正知のある生き方に挑戦して下さい。
身の丈修行者
2015年06月02日 07:59
スマナサーラ長老がある程度分かった方に対し、師匠を頼らず自立して自分で修行を促すような言動をされる時があると知りました。
師匠に依存するのではなく、自分で・・との厚意を感じました。
自分は勿論そのような域ではないですが、身近な渇愛等を切れるように精進したいです。

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