昼も夜仏陀の弟子は覚醒し不害の心を楽しんでいる(300)

ダンマパダ 300,301

常に仏陀の弟子は
よく覚醒していて
昼も夜も
不害を心楽しむ (300)

常に仏陀の弟子は
よく覚醒していて
昼も夜も
修行を心楽しむ (301)


○この詩から学ぶこと

 300番の詩のキーセンテンスは「不害を心楽しむ」です。301番は「修行を心楽しむ」です。

 先ず、「不害」について、仏教ではある概念に「不」をつけて新しい概念を表現する場合がかなりあります。代表的なものに、貪(むさぼり)、瞋(怒り)、痴(無知)に不をつけた、不貪、不瞋、不痴という言葉があります。しかし、私たちは貪(むさぼり)、瞋(怒り)、痴(無知)については、いつも経験していますからよく分かりますが、不貪、不瞋、不痴についてはほとんど経験してないのです。ですから本当は分からない概念なのです。ですから経験して分かる概念に「不」をつけて、新しい概念を予想するのです。でも、実際には想像以上に大きく、強い概念なのです。一応そのようなものだと思うほかにはないのです。

 今回の「不害」もこのような言葉なのです。「害する」とは、肉体的にも、精神的にも傷をつけること、殺害することという意味です。その言葉に「不」をつけたらどのような意味になるでしょうか。例えば、Aを否定してAでないといったら、A以外すべてですから、「Aでない」の意味は大変大きなものになるのです。同様に、「害しない」は単に、傷をつけない、殺害しないという意味だけでなく、慈しみの心も含み、実はそれ以上大きなものなのです。ですから、「不害」と言ったら、「慈悲喜捨」の無量心と同様に考えていいのではないでしょうか。仏陀の弟子は昼も夜も、無量心を楽しんでいるということです。改めて、「不害」について考えて見て下さい。

 次は「修行を心楽しむ」です。たまには、論語の言葉を引用してもよいでしょう。「これを知るものはこれを好む者に及ばない。これを好む者はこれを楽しむものに及ばない。」 この言葉のように、修行が楽しめれば、淡々と、求めることなく、止まることなく、修行を続けることができ、煩悩の大河を渡ることができるようになります。仏陀の弟子たちは、昼も夜も修行を楽しめるようになっているのです。

 ですが、初めから、このようにはできません。初めは仏陀の教えを学び知ることから初めなければ、仏陀の教えを好むこともできません。また楽しむこともできないのです。ですから、知ることから始めるものなのです。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200809/article_18.html
 (300)仏陀の弟子はよく覚めていて不害の心を楽しむよ

http://76263383.at.webry.info/200809/article_19.html
 (301)仏陀の弟子はよく覚めていて慈悲の心を楽しむよ

○少しでもブッダの肉声に近づくために(カタカナを3回音読して下さい。)

スッパブッダン パブッジャンティ
Suppabuddhaṃ  pabujjhanti,
よく目覚めて  目覚めている
サダー ゴータマサーワカー
sadā   gotamasāvakā;
常に  ゴータマの弟子は
イェーサン ディワー チャ ラットー チャ
Yesaṃ     divā    ca   ratto   ca,
彼らは    昼     も   夜   も
アヒンサーヤ ラトー マノー
ahiṃsāya    rato   mano.(300)
不害の    楽しむ 心で

スッパブッダン パブッジャンティ
Suppabuddhaṃ  pabujjhanti,
よく目覚めて  目覚めている
サダー ゴータマサーワカー
sadā   gotamasāvakā;
常に  ゴータマの弟子は
イェーサン ディワー チャ ラットー チャ
Yesaṃ    divā     ca   ratto   ca,
彼らは    昼     も   夜   も
バーワナーヤ ラトー マノー
bhāvanāya    rato   mano.(301)
修行の     楽しむ  心で

○昼も夜仏陀の弟子は覚醒し不害の心を楽しんでいる(300)
○昼も夜仏陀の弟子は覚醒し修行の心を楽しんでいる(301)


~私は幸せでありますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

この記事へのコメント

2009年07月29日 02:34
ワンギーサさん、こんばんは。すると例えば「Aでないものを知りそれを心楽しむ」ためには「そもそもAとは何かを知り、それが否定されるべきものであると知り、なおかつ自分の心にあることを知る」ことが条件のように思います。仏教に接する以前、私は「物惜しみが怒り」だとは全く知りませんでした。また「他と競争したり張り合ったりすること」はいいことだとばかり思ってました。そして、自分の肉体を美化し、心も美化してしまう。こうした偽善、無知を発見することに仏教を勉強することの醍醐味があると思います。有難うございました。
2009年07月29日 07:33
小学校の頃、
嫌いなクラスメートが死んでくれることを
毎日のように念じてました
害の心でいたわけです
中学、高校、大学、同じでした
数年前、慈悲の心を育てようと思ったときは
荒れ果てた土地に
慈悲の種を植えるような心境で
芽を出し木になり
花が咲くんだろうかと
気が遠くなったのを記憶いたしております
今も日暮れて道遠し…
仏法僧や世間の皆さまに
教わることの多い毎日です
ツヨシ
2009年07月29日 18:25
知ってみます。
ボクのなつやすみ
2009年07月29日 19:35
みなさま今晩は
デカ絵文字の使いすぎはよくないと分かりました。「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし」です。冥想実践毎日続けます。お盆が少し「友あり遠方より来たるまた楽しからずや」でさぼりそうです。
髙橋優太
2009年07月29日 19:44
ワンギーサ先生、皆様、こんばんは。
今から慈悲の心を育てよう。修行を楽しくやります。生きとし生けるものが幸せでありますように!!
身の丈修行者
2015年06月03日 07:41
修行を身の丈ですが毎日行っています。それについて自分なりに自己観察してみました。
今一番やる必要のある大事な事として身の丈実践しています。楽しんでいるかと思うと?ですが、かと言って嫌がっている訳ではありません。
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「初めは仏陀の教えを学び知ることから初めなければ、仏陀の教えを好むこともできません。また楽しむこともできないのです。ですから、知ることから始めるものなのです」心に響きます。知ること→好む事→楽しむ事もやって参りたいです。

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