執着の基の卑しき渇愛に打ち負かされて憂いが増える(335)

ダンマパダ 第24章 渇愛 335、336

この世に執着する卑しい渇愛が
彼を打ち負かすならば
雨が降った後のビーラナ草のように
彼の憂いは増える(335)

しかし、この世で克服し難い卑しい渇愛に
彼が打ち勝つならば
ハスの葉の水滴のように
彼から憂いが消え失せる(336)


○この詩から学ぶこと

 釈尊は「渇愛」を「卑しい」という言葉で形容しています。確かに、「欲しい、欲しい、欲しい」という態度は卑しいものです。しかし世の中の人々は「欲しい、欲しい、欲しい」という態度は当たり前で、変だとは思いません。少しでも安売りがあれば、人を押し分けても買い求めようとします。卑しいというか、浅ましいというか、情けない有様です。確かに世の中は生きているのが大変で、生きるためには苦労が多いのですが、少し冷静な態度で見れば恥ずかしいことであると分かる筈です。

 この世で、なんとしてでも生きて生きたいという、この世への執着は、卑しい渇愛から始まるのです。この卑しい渇愛が、人を打ち負かすと、彼から冷静さは消え、欲しい欲しいという思いが増殖します。しかし、現実は彼の思うままにはなりませんから、彼には不満が増大します。そしてそれで心の苦しみである憂いが増えるのです。ビーラナ草は、雨の降ったあと急速に増えるそうです。そのように卑しい渇愛が増えると、憂いが増えるのです。

 なんとしてでも生きていたい人々にとっては、渇愛は克服しようとも思っていませんから、もちろん、克服はできません。しかし、渇愛が憂いの原因であると分かっても、渇愛は克服し難いものなのです。私たちの見る、聞く、匂う、味わうなどで、好ましい感覚があると、自動的に渇愛はあらわれますから、克服し難いのです。

 卑しい渇愛を克服する方法は、感覚を観察することです。観察することで、自動的に現れる渇愛をコントロールできるようになるのです。感覚から渇愛が表れる瞬間が見えてくるからです。これがヴィパッサナー瞑想です。観察によって渇愛を克服することができれば、憂いの原因が克服されるのですから、憂いは消えてなくなります。釈尊は、よく苦しみのなくなる状態を、ハスの葉の上の水滴に譬えられます。ハスの葉の上に水が落ちると、ハスの葉はその水でぬれないで、水が小さな水滴になるのです。そして、ハスの葉からぽとりと下の落ちます。その後は、ハスの葉の上は何もなかったような状態なのです。心から憂いが、何もなかったように消え失せてしまうのです。皆さんも是非、渇愛を克服して、何もなかったように、感覚を観察することによって、憂いをなくしてください。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200810/article_14.html
 執着の基の卑しき渇愛に打ち負かされて憂いが増える(335)

○この詩のパーリ語原文

335.
ヤン エーサー サハテー ジャンミー
Yaṃ  esā     sahate    jammī,
人を この    打ち勝つ  卑しい
タンハー ローケー ヴィサッティカー
taṇhā    loke     visattikā;
渇愛が  世間に   執着して 
ソーカー タッサ パワッディンティ
Sokā    tassa   pavaḍḍhanti,
憂いが   彼らに  増大する
アビワッタンワ      ビーラナン
abhivaṭṭhaṃva      bīraṇaṃ.
雨が降った後のように ビーラナ草

336.
ヨー チェータン  サハテー ジャンミン
Yo   cetaṃ     sahate    jammiṃ,
人が しかしこの  打勝つ  卑しい
タンハン ローケー ドゥラッチャヤン
taṇhaṃ   loke    duraccayaṃ;
渇愛を  この世で 征服しがたい
ソーカー タンハー パパタンティ
Sokā    tamhā    papatanti,
憂い   彼らから  消え失せる
ウダビンドゥワ ポッカラー
udabinduva   pokkharā.
水滴のように ハスの葉の


○執着の基の卑しき渇愛に打ち負かされて憂いが増える(335)
○世の中の制止しがたい渇愛に打ち勝つならば憂いが落ちる(336)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~


 
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この記事へのコメント

才木広之
2009年08月21日 22:38
おーい、ツヨシちゃん。ひろちゃんだよ。

最近どんな感じ、自我濃いいですか、薄いですか。

どっちでもいいよね、自分が所詮考えることだから

まったくもって自我はないのにわざわざ妄想で作り出したりするんだから全く愚か者としか言いよう無いよね、

自我が無いというよりもあり得ないのよね、それなのにわざわざ作るんだからどうしようもないよね妄想でしか作れないのに分っていない。わざわざ妄想までして苦しまなくてもいいのに。分っちゃいない。事実なら苦も楽も考えたりする訳ないのに無いのに。何度言っても分からないどうしたもんでしょうツヨシさん。これならもう何も考えるな、としか言いようがないよね。けどこれが出来ないらしい。もうどうしようもないよね。だから妄想する人は、慈悲の冥想、ヴィパッサナ冥想しなさいというう訳ですが。分る筈もない、妄想してるのだから。
妄想で理屈っぽい人はなかなか難しい。妄想のプロみたいなもので。

例えるなら。水害の被害なんて考える人、徹底的な妄想の達人。そんな言葉ありえない。これ言葉で妄想の人に説明しても長くなるから止める、どう考えたっておかしい言葉だからわかる人には、分るだけのこと

強ちゃん元気でね
2009年08月22日 05:03
ワンギーサさん、おはようございます。はっきり言って、スーパーには行きたくありません。広告の品の所だけがアッという間に「空」になっていたり、レジでも突き飛ばされそうな勢いです。だからなるべく「静かな」スーパーで買うようにしてますが、いつも閑散として虚しくなります。早いもの勝ち、他店を潰してでも勝ちたい、という日々の光景にさえ「生きること」への執着の「凄まじさや巨大さ」を感じざるを得ません。しかし、本当に恐ろしいのは、自分自身の「渇愛」です。「渇愛」のエネルギーで生き、それを良しとしている人生の中で、「渇愛」の怖さを知ったときから「己との戦い」が本格化するように私には思えます。その場合「勇気」=「精進」が決め手になる。というのが現時点での私なりの感想です。有難うございました。
2009年08月22日 05:33
実は知り合いに85歳になる方がいます。顔を合わせるたびに「いい儲け話しはないかね?」と言うので「そんなに金儲けしても死んで終わりでしょう。あの世に札束はもっていけませんからね」と言うと「そんな元気のないことでどうする!」とお説教を延々と聞かされるハメになります。「死」を見つめることの大切さを痛感してます。「死なない」前提で生きることの、はかなさを日々感じているからです。有難うございました。
ワンギーサ
2009年08月22日 16:03
2009/08/09 10:29 にコメントしてくれた「鹿さん」。
要望の件、検討しましたが、BIGLOBEウェブリブログにはカテゴリー別に分類できる機能がありませんので、26章で分けることはできません。しかし、章別に検索できるように各記事に章を明記したしたので、章別に検索できると思います。過去の記事については少しずつ章を記入します。
鹿
2009年08月22日 22:54
法輪に感謝。参考までに、無償でダウンロードできる電子書籍(携帯電話アプリ版)になるとさらにいいですね。法句経は、宗教アレルギーのある人たちにも広く受け入れられると思います。地下鉄内やマンション内だと携帯電話の電池受信が不良なので電子書籍は助かります。
身の丈修行者
2015年06月11日 07:36
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「渇愛を克服して、何もなかったように、感覚を観察することによって、憂いをなくしてください」心に響きます。
是非渇愛を克服し、憂いがなくなるように精進したいです。
毎日色々な事があるなかで、それが憂いになってしまうのか観察対象として終わるのかは自分次第と思います。そのような意味でも自分を観察して参ります。

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