草の根を掘り起こして枯らすように渇愛抜いて幸福であれ(337)

ダンマパダ 第24章 渇愛 337

我はここに集まった汝らに説く
汝らよ、幸福であれ
ビーラナ草の根のように
渇愛の根を掘り起こせ
汝らよ、アシが流されるように
繰り返し悪魔に破壊されるな


○この詩から学ぶこと

 この詩は精舎に集まった比丘や在家の信者たちに、次のように祝福するところから始まります。

 「汝らよ、幸福であれ」、これは釈尊の唯一の願いでした。釈尊の説法は八万四千とも言われていますが、それらはすべて生命の幸福を願って、説法されたものです。しかも最高の幸福である涅槃への道を教えるために行われたものです。私たちが釈尊の言葉を理解できない時、その言葉は私たちの幸福のために話されたものであるとして、学び治すと、その意味が分かり始めるこよが度々あります。

 釈尊は「汝らよ、幸福であれ」と人々に祝福されたのですが、そのための方法を以下で述べられます。先ず、私たちが幸福であることを妨げているものを明らかにしています。それは渇愛なのです。渇愛が幸福であることを妨げ、悩みや苦しみを生み出しているのです。

 渇愛の取り除き方も述べられたいます。ビーラナ草の根は薬になるので、ビーラナ草は根まで掘り起こされるのです。そのように、渇愛を根こそぎ掘り起こして、取り除く必要があるのです。渇愛の根が少しでも残っていると、また渇愛は現れてくるからです。

 釈尊は五欲にたいする渇愛を激流の譬えます。この渇愛が幸福を破壊し押し流すからです。仏教では世界を欲界、色界、無 色界の三つに分けますが、人間の住む世界は欲界なのです。欲界は輪廻の世界なのです。この欲界の支配者は悪魔(マーラ)だといわれています。この悪魔が渇愛によって人間の幸福を破壊しているのです。ですから、釈尊は、渇愛を根絶やしにして、幸福を破壊しないように教えているのです。「繰り返し」とは、輪廻を繰り返してという意味です。生まれ変わるたびに、渇愛によって幸福を破壊しないように仰られているのです。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200810/article_15.html
 草の根を掘り起こして枯らすように渇愛抜いて幸福であれ

○この詩のパーリ語原文

337.
タン  ヴォー ワダーミ バッダン   ヴォー
Taṃ   vo    vadāmi  bhaddaṃ    vo,
人々に 汝らに 説く   幸福であれ 汝らよ
ヤーワンテッタ   サマーガター
yāvantettha      samāgatā;
それだけ ここに  集まった人々
タンハーヤ ムーラン カナタ
Taṇhāya    mūlaṃ  khaṇatha,
渇愛の    根を   掘り起こせ
ウスィーラットーワ ビーラナン
usīratthova      bīraṇaṃ;
根のように      ビーラナ草の
マー  ヴォー ナランワ  ソートーワ
Mā    vo    naḷaṃva   sotova,
なかれ 汝らよ 葦の    流され ように
マーロー バンジ   プナップナン
māro    bhañji    punappunaṃ.
悪魔が  破壊する 何度も


○草の根を掘り起こして枯らすように渇愛抜いて幸福であれ(337)


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~


 
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この記事へのコメント

才木広之
2009年08月22日 22:36
理解できました。有難う御座います

なんの意図もありませんが

ビーナラ草の根は薬だとすれば、丁寧に、自分のため、または他の人のために、掘り起こされたでしょう。

その様子を見て、あのように、ていねいに渇愛も掘り起こしてくれたら、自分のためにもなるし、他の人々のためにもなるのにな~。と思った事でしょう

なーんにも難しくない。ブッダは優しいんだもん。

生きとし生けるものが幸せでありますように


才木広之
2009年08月22日 22:55
仏陀を難しくしてるのは、悟れない、、、修行者、、、
悟れないから難しく、難しく考える。
これはっきり言って逃げてるだけ、

ブッダは難しく言ってない、
当時の人理解できた、思う。
悟った人いないから今のことばに訳せない。
スマナサーラ長老すごいすごい努力した。日本語で伝えようとした。すばらしい。

日本で生活した人、悟ってそれから伝えようとすれば。難しい言葉使わないはず。
妄想の残っている人、、、訳せる筈ない。

ブッダの心、なぜこういったのか。それ考えれば。すごくすごく楽しい

だからワンギーサさん、最高の先生。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
才木広之
2009年08月22日 23:23
その様子を見たブッダは、流れを渇愛。ともに流れていく葦を人間。また生えてくるだろうと思われる葦を輪廻

そのようであるなよ。と伝えた

生きとし生けるものが幸せでありますように


才木広之
2009年08月22日 23:28
ブッダはどのような光景を見て、それを例えたのだろうと思ってみてください。ブッダになりきってみましょう

それにはワンギーサさんは、最高の先生です

今後ともよろしくお願いします

生きとし生けるものが幸せでありますように
髙橋優太
2009年08月22日 23:52
ワンギーサ先生、才木さん、こんばんは。
最近、困ったときはダンマパダにたくさんの人がコメントを書かれているのでうれしいですね。僕も機会があれば仲の良い友達に紹介しようかな?と思いました。今日もありがとうございました。繰り返し悪魔に破壊されるないように、実況中継を頑張ります。

生きとし生けるものが幸せでありますように
2009年08月23日 04:47
ワンギーサさん、おはようございます。自分が病気の時、あっちこっちの医者にかかってようやく「原因」がわかると、それなりの安堵感に包まれることがよくありました。急に激ヤセ人に、その「原因」を聞くとそれなりに納得できます。しかし、ブッダは個々のケースでなく、全ての生命の苦しみの「原因」・全人類の苦しみの「原因」は「渇愛」だと発見されました。倉橋由美子著「蛇・愛の陰画」という小説を読みました。反リアリズム文学らしく、激しい妄想の世界なので違和感多いですが、何より私とは「渇愛」という接点があります。ところで、土日ということで、お隣さんはドンチャン騒ぎ。どんな人にも「渇愛」があり、その出かたに個性があるだけ。と思うとさほどイライラしません。そんな役立て方も出来ますが、その場しのぎでなく「万病のもと・渇愛」を取り除くことに精進します。それで「幸福」になりたいからです。有難うございました。
2009年08月23日 05:14
「激流」にあったら、のみこまれておし流されてしまいます。だからこその「激流」です。凄まじいエネルギーです。単に「これが欲しい、これが見たい」という日常会話レベルではそんな「激流」など感じません。「渇愛」を根こそぎ無くすことは不可能に近いようにも思いますが、無くす努力は確実に「幸福」への道を歩んでることを実感出来ます。精進あるのみです。有難うございました。
才木
2009年08月23日 08:17
ビーナラ草 根は薬なら
渇愛の 元を抜くこと それこそ薬 
才木広之
2009年08月23日 08:25
われわれ愚かものは、心の病に侵され、苦しんでいるのです

体が病になれば、薬が必要です。その薬は大切にします

では心の病の私達も、薬が必要です。渇愛のもととなる原因をを見つけそれを抜くことが、薬になると私のブッダは教えてくれました。またそれを探す手段が必要です
慈悲の冥想、ヴィパッサナー冥想、使って探しに行こうよ渇愛のもととなる原因。

生きとし生けるものが幸せでありますように
2009年08月23日 08:53
「渇愛はなぜ生まれるのか?」…まさにウ゛ィパサナーで発見し克服する世界ですね!精進いたしましょう!
才木広之
2009年08月23日 09:25
新さんへのご返事です
慈悲の冥想も、ヴィパッサナーも、切らさないこと、途切れさせないこと、こういう方法もあると思います。今日はヴィパッサナーするから、それまで息抜きしてては駄目、常にその瞬間で出来ることをヴィパッサナーし続ける。常に疑いを持たない事です。慈悲の冥想、ヴィパッサナーに対して。なぜ疑いが自分の心にあるかといえば。その疑っている心は、逃げです。だけど心は病気だから気付かないのです。書き込みも正直に心を現さないと、妄想の種になりますからご注意を。

生きとし生けるものが幸せでありますように
2009年08月23日 11:40
「自分がいる」という幻覚に逃げ込む。その幻覚に執着している。雑巾を片手に街中を掃除する。だんだんと心が反発してくる。自分の家、他人の家という概念への執着が原因。それが苦しみのもと。お布施も大事ですね。
才木広之
2009年08月23日 21:51
他を尊重することも大事です
身の丈修行者
2015年06月11日 07:42
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「渇愛を根こそぎ掘り起こして、取り除く必要がある・・渇愛の根が少しでも残っていると、また渇愛は現れてくる・・」心に響きます。渇愛のようなものも必要で、それが生きる原動力になっている・・みたいな話を世間で聞く事があります。ですがどの程度の渇愛を残せば良いのか?等不明確でいい加減な話しとの印象を感じます。
渇愛を根こそぎ断てるように実践して参りたいです。

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