渇愛は三十六の流れなりその貪欲は彼を押し流す(339)

ダンマパダ 第24章 渇愛 339、340、341

彼に快に向って流れる
三十六の激しい渇愛あれば
その貪欲に基づく思考は
邪見者を押し流す

渇愛の流れはどこにでも流れ
葛のような渇愛は芽を出す
その繁茂する葛を見て
その根を智慧によって切り取れ

人々は愛欲に流され
快楽への愛着がある
彼らは快に依存し楽を求める
こうして生老の輪廻に近づく



○この詩から学ぶこと

 前回の「この詩から学ぶこと」には、渇愛についての話が続いたので、ソーナという仏弟子のエピソードを引用しました。修行はあまり根をつめて行っても、効果がないのです。リラックスして、淡々と行うべきなのです。興味のある方は参照してください。

 三十六の激しい渇愛についても前回説明しましたので、そちらを参照してください。渇愛はいろいろな所で発生するので、多くの渇愛の流れがあるのです。例えば、また出ますが、ケーキを見て発生する渇愛があります。ケーキを食べて現れる渇愛があります。音楽を聴いて現れる渇愛があります。テレビのコマーシャルを見て現れる渇愛があります。いたる所で、渇愛は現れるので注意が必要なのです。

 皆さんは、葛(くず)が繁茂しているところを見たことあるでしょうか。葛根湯という、風邪に使う漢方薬があります。これは葛の根から作るから葛根湯というのですが、この葛の根の繁殖力は大変強く、どんなところにも根を伸ばして、至る所に繁茂するのです。竹の根が地面に張り巡らすのに似ています。そのように、渇愛の根は、私たちの心に張りめぐっているのです。根から切りとれと言っても大変ことなのです。ですから、この詩では「智慧によって切り取れ」と述べているのです。

「智慧によって」とは、具体的には「観察によって」です。観察から智慧が生まれ、観察によって智慧が開発されるからです。渇愛は感覚から生まれます。感覚に快が現れると、渇愛が現れるのです。ですから、感覚に快が現れたら、それに流されることなく、そこから離れることが必要なのです。実際には絶えず変化している感覚を、変化に即して観察できれば、感覚の快に執着することはないのです。(2009.8.25.朝、追記)

 しかし、人々は渇愛の根を切り取るのではなく、愛欲に流されるのです。正しく愛を育てるのではなく、愛欲におぼれ、不倫までするのです。快楽への愛着は強く、一部の人でしょうが、麻薬や覚醒剤におぼれ、人生を破壊し、周りの人々に大きな迷惑を与えているのです。「快に依存し、楽を求める」態度は一部の人々だけでなく、私たちにあるのです。そのことは、苦悩から脱出ではなく、再度生まれ変わり、再度苦悩の生を歩むということなのです。


○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200810/article_17.html
 渇愛は三十六の流れなり欲に基ずく見解運ぶ(339)


○この詩のパーリ語原文

339.
ヤッサ チャッティンサティ ソーター
Yassa  chattiṃsati       sotā,
彼に  36の         流れは   
マナーパサワナー ブサー
manāpasavanā    bhusā;
快に向かう流れ  激しい
ワーハー ワハンティ ドゥッディッティン 
Vāhā    vahanti    duddiṭṭhiṃ,
流れは  運ぶ     邪見者を
サンカッパー ラーガニッスィター
saṅkappā    rāganissitā.
思考は    貪欲に基づく
340.
サワンティ サッバディ   ソーター
Savanti    sabbadhi    sotā,
流れる   すべての所に 流れは
ラター ウッパッジャ ティッタティ
latā   uppajja     tiṭṭhati;
葛は 芽生えて   繁茂する
タンチャ ディスワー ラタン ジャータン
Tañca   disvā     lataṃ  jātaṃ,
その 又 見て    葛の  発生を
ムーラン パンニャーヤ チンダタ
mūlaṃ   paññāya     chindatha.
根を  智慧によって   切断せよ
341.
サリターニ スィネーヒターニ チャ
Saritāni    sinehitāni      ca,
流れが     愛情(の)    又
ソーマナッサーニ バワンティ ジャントゥノー
somanassāni     bhavanti   jantuno;
喜悦が       存在する  人間には        
テー   サータスィター スケースィノー
Te     sātasitā      sukhesino,
彼らは  快に依存し  楽を求める者
テー  ヴェー ジャーティジャルーパガー ナラー
te     ve    jātijarūpagā           narā.
彼らは 実に  生老(輪廻)に近づく     人


○渇愛は三十六の流れなりその貪欲は彼を押し流す(339)
○渇愛はどんなとこでも芽を出して繁茂するから根から切り取れ(340)
○人々は愛に流され依存する快を求めて再度生まれる(341)


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~


 
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この記事へのコメント

2009年08月25日 03:43
ワンギーサさん、おはようございます。才木さんから、心に正直にコメントするよう指摘されましたが、これは極めて重要のように思います。ブログ上では虚勢をはっても、見栄や誤魔化しても平気です。だから常に悪をなさないで生きてる必要があります。そうすれば、誤魔化しなどせずコメントすることができます。さて、ケーキの話題が続いたので少しケーキにちなんで書いてみたいと思います。
2009年08月25日 04:05
昨日の夜、デパートのケーキ売り場に行きました。30日に「食事のお布施会」がありますが、直接参加できないのでお菓子を贈らせて頂きました。各メーカーとも工夫を凝らし、色とりどりのシャレたデザインのケーキを展示してました。実は「事後的に」その事実がわかっただけで、実際は見た瞬間に渇愛が生まれ、よりいいものを探し求めてしまいました。お布施の品の基準として、自分が食べてみたいものを。という理由からです。ところが、実に奇妙なことに実際にお布施の段取りを済ませると、何とも形容しがたい爽快な気分になりました。充実感といった方が適切かもしれません。その軽やかな気持ちがあると、「もっと、もっと」という渇愛がほとんど機能しなくなります。というより機能しずらくなります。お布施は強要するものではありませんが、そういう意味でのご利益であるなら確実に実感できます。逆に常に不満をつのらせているかならば、渇愛の悪循環にはまってしまうのかもしれません。
2009年08月25日 04:24
私は男性なので、女性のダイエット願望のことはよくわかりません。多くの女性がケーキ好き、グルメであることは事実だと思います。結果的にはふとります。聞くところによると、覚醒剤にはダイエット効果があるとか。ケーキを食べる代わりに覚醒剤では悪循環の典型です。これについては前回のワンギーサさんの私へのご回答が有益と思うので抜粋します「渇愛の問題点は渇愛による苦を渇愛をなくして苦をなくそうとするのではなく、苦をなくすために新しい渇愛を求めるところにあります。そしてまた新しい苦を作ります。これを無明といいます。」これで、何故渇愛をなくす武器が「智慧」なのかが理解できました。「智慧」の開発である瞑想を頑張ります。有難うございました。
2009年08月25日 04:50
これは蛇足ですが、自分でチーズケーキをよく作るので、ご紹介します。俗に言うケーキなんてのは実は存在しません。チーズケーキにしても、出来立ては、のべっとした円盤で、少しも美味しそうに見えないただの「物体」です。それに包丁を入れて12等分し、さらにお皿にもってブルーベリーソースで色にアクセントをつけます。それを「チーズケーキ」と認識し、勝手に美味しそうと思ってしまうだけです。デパートのケーキも巧妙にでっちあげられた虚構で、皆騙されてるだけです(これで経済が成り立っているかも)。よく、舞台裏という言葉があります。以前よく通っていた劇団の芝居やショーなどにひかれ、そのうち稽古風景や楽屋などを見る機会がちょくちょくありました。すると本番での舞台にあまり感動しませんでした。その時は「綺麗なとこだけ見ておきゃよかった」と後悔したものですが、今思うと見るならば徹底的に全体を見るのも良し。と思います。それは自分で作ったケーキの実態を知ってるが故に、表の顔には乗りずらいことと似ているような気がします。有難うございました。
才木広之
2009年08月25日 06:33
思考は妄想なのですから、新さんのような、しかたは、なにごとにも通じることだと思いました

ただし、皆騙されている。というところは、
人はケーキを妄想で見ているだけで、食べれば栄養になり、その他は糞尿等になるケーキを、飾り付けしてあるからと言って、渇愛の対象にしているだけで、(これで無駄な飾り付けで経済は困窮している)。

以下、長くなるから止める。

ワンギーサ先生ブログは一人で見ています。その事に配慮されてみてはいかがでしょう。私たちや、皆さんはっこではやめて、あなた、にしてみてはどうですか

生きとし生けるものが幸せでありますように

才木広之
2009年08月25日 06:39
間違い、

っこ、ではなくて、、ここ

ワンギーサ
2009年08月25日 08:05
新さん、才木広之さん、おはようございます。コメントありがとうございます。

新さんのコメントは、ためになることが多く、新さんのコメントを楽しみにしている人がいますよ。今後もよろしくお願い致します。

才木さんの提案、「ブログは一人で見ているので」という意見は配慮しようと思います。「皆さん」は違和感があると思いますが、「私たち」は、あなたと私という感覚なのです。「あなた」というと、自分は違うよという感覚になると思われるので、少し書きにくいのですが、いろいろ試してみます。提案ありがとうございました。
才木広之
2009年08月25日 12:35
人、というのはどうでしょうか
ワンギーサ
2009年08月25日 13:42
なるほど。
才木広之
2009年08月25日 20:32
人々は、を、多くの人はとか、とにかく自分に言われているように、

ここでの書込み、書き込まれた方の文字、すべては僕の勉強になってます、有難いことです

生きとし生けるものが幸せでありますように
身の丈修行者
2015年06月12日 06:20
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「渇愛は感覚から生まれます。感覚に快が現れると、渇愛が現れるのです。ですから、感覚に快が現れたら、それに流されることなく、そこから離れることが必要なのです」心に響きます。
実生活の中で、快や不快を感じた後引っ張ると思考・妄想が活発に回転している自分に気がつきます。
感じた・・で終われるように精進したいです。

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