財産や子供と妻が強い枷賢者は捨てて諸国をめぐる(346)

ダンマパダ 第24章 渇愛 345,346

鉄製、木製、麻製の枷を
強固な拘束と賢者は言わない
宝石や耳飾への執着と
子供や妻への愛情は
引力のある、ゆるやかだが
強固な拘束だと賢者は言う
これさえも断ち切って賢者は遊行する
求めることなく、愛欲と快楽を捨てて


○この詩の蛇足

 ダンマパダを学ぶとは、釈尊の詩そのものを繰り返し学ぶことが一番です。私が「この詩から学ぶこと」で解説らしきものを書いていたのですが、それはあくまでも、ダンマパダを学ぶ上では補助的なものです。そのことを明らかにするために、この欄を「この詩の蛇足」としました。ですから、読まなくてもいいのです。釈尊の詩だけを読んで、理解しようとしてください。その際、よく分からないと感じたら、それが一番よいのです。この詩は人間には伺いしれない偉大な智慧で書かれているのですから、本当は凡夫にはすぐには理解できないことなのです。何度か読んで、よく考えて、しばらくしてから分かることがあります。その時、本当になるほどと思えるのです。

 釈尊の詩を一度読んだだけで、直ぐ分かったと思った時は危険です。あえて書きますが、それは凡夫の浅知恵で自分勝手な理解をしている可能性があるのです。ですから、直ぐに分かったと思ったら、「ちょっと待てよ」と思うことです。本当に自分が理解しているのかよく考えてみてください。

 「この詩の蛇足」は、私の参考意見です。また、ダンマパダの原文はパーリ語で書かれていますので、釈尊の意図のまま日本語には訳せないのです。多少、訳者の主観が入ります。その修正のために、補足したものです。また、専門的な仏教用語がありますから、その基礎的な解説です。それを知っておいた方が理解し易いということです。でも基本は釈尊の詩ですから、それを繰り返し読んで、学んでください。

 さて、今回の詩の蛇足になります。囚人は鉄格子のある監獄に入れられ、犯罪者は鉄の手錠をし、罪人には首枷や足枷を付けました。ですから、これらのものが人間の自由を奪う拘束であると考えます。しかし、賢者はそうとは考えないのです。そうではなくて、宝石や装飾品、あるいは子供や妻が、強固な拘束だと言うのです。そのことを考えるのがこの詩の目的です。財産や子供や妻への執着が、人間の自由を奪っているのです。自由を奪われた人間とはどのようなものなのでしょうか。


○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200810/article_20.html
 財産や子や妻への執着捨てて賢者遊行する

○この詩のパーリ語原文

345.
ナ   タン  ダルハン バンダナマーフ ディーラー
Na   taṃ   daḷhaṃ   bandhanamāhu   dhīrā,
ない それを 強固な   拘束と  言う  賢者は
ヤダーヤサン ダールジャン バッバジャン チャ
yadāyasaṃ    dārujam    babbajañ    ca ;
その 鉄製の  木製の     麻の      しかし 
サーラッタラッター マニクンダレース
Sārattarattā       maṇikuṇḍalesu,
執着         宝石や耳飾りに対する
プッテース   ダーレース チャ ヤー アペッカー
puttesu      dāresu     ca   yā   apekkhā.
子供に対する 妻に対する 又  およそ 愛情が
346.
エータン ダルハン バンダナマーフ ディーラー
Etaṃ    daḷhaṃ   bandhanamāhu  dhīrā,
それを   強固な  拘束と  言う  賢者は   
オーハーリナン スィティラン ドゥッパムンチャン
ohārinaṃ      sithilaṃ    duppamuñcaṃ;
重く        緩やかな   解脱し難い
エータンピ チェトゥワーナ パリッバジャンティ
Etampi    chetvāna     paribbajanti,
これさえも  断ち切り    遊行する
アナペッキノー カーマスカン パハーヤ
anapekkhino   kāmasukhaṃ  pahāya.
求めることなく  愛欲と楽を  捨てて

○鉄製や木や麻の枷そんなもの強固な枷と賢者は言わぬ(345)
○財産や子供と妻が強い枷賢者は捨てて諸国をめぐる(346)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~


 
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この記事へのコメント

2009年08月28日 04:11
ワンギーサさん、おはようございます。では凡夫の知恵で挑戦してみます(笑)。あるジレンマを導き出す手法で解明に迫ったつもりです。明らかな間違えがあったら、ワンギーサさんに指摘して頂くと助かります。★これはあくまで一般論ですが、「人の間違えを指摘する」場合の盲点について書いてみます。次の例はどうでしょう?A「1+1=3だ」それに対しB「君はまるで足し算を理解してないようだね。勉強し直す必要があるな」。このやりとりを見るとAは間違えで、Bが正しいと思うのではないでしょうか。(しかし実際にはBが1+1=7をもってAを間違いだと指摘したかもしれません)つまり、ある主張の間違えの指摘は、その指摘した主張自体の「正しさ」を何ら保証するものではない。ということで、大切だと思います。今の例が簡単に理解可能なのは、「1+1=2」と知識で正解を知ってるからです。ところで、ここはブッダの世界です。「1+1=2」を知らない、わからないという中での手探りになるでしょう。肝心なのは、「間違えの指摘」=「正しい」と、少なくとも感覚的には感じないことです。前置きが長くなりました。有難うございました。
2009年08月28日 04:29
生きていれば、ご馳走食べ高価なものを手にいれたり、贅沢に暮らしたり結婚生活することができます。いよいよ国政選挙が迫ってきました。人々が安全で豊かな生活を共に享受できればよいのでしょう。国家という暴力装置で犯罪を取り締まらなければ、社会の秩序は保証されません。では、その秩序によって何が得られるのか?それは、生きること、食べること、遊ぶこと、結婚して孤独を癒すことなどです。少なくとも私はビクビクしてコンビニに行くような世の中は嫌です。さて、このように生活する喜びに大きな価値がなければ、抑止や秩序安定としての刑罰も無意味なものになります。当然ですが、テロや強盗も無価値なものにはなされません。
2009年08月28日 04:51
(続き)つまり、警察や刑務所は、それによって人生の楽しみ喜びを享受出来なくなる。という前提においてはじめて社会の安定装置として機能する一方で、それらの楽しみ喜びのために犯罪行為も社会に絶えない。というジレンマがあります。では、刑務所で肉体を拘束されていれば「不自由」で、そうでなければ本当に「自由」で思い存分楽しめるのでしょうか?そうでないと思います。この肉体には限界があり、誰もが何でも出来るわけではありません。そして何より「老病死」に拘束されていて、思い存分楽しむことなど原理的に不可能です。その意味で、刑務所の内も外もありません。私たちは基本的に誰もが囚人なのです。私たちが囚人なら、刑務所の内外を問わず、まずはとらわれている世俗の楽しみを捨てるしか、苦しみから脱出する方法はないのです。唯一ブッダがその方法を説かれたのです。(以上です)
髙橋優太
2009年08月28日 09:39
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。三宝に帰依したします。ワンギーサ先生、いつもありがとうございます。生きとし生けるものが幸せでありますように。
ワンギーサ
2009年08月28日 18:17
新さん、今日のたとえは分かりやすいですね。
1+1=3と思っている人が1+1=7と言う人を批判する。
これがまさに世の中の実情です。ですから、批判する前に自己観察が必要です。
身の丈修行者
2015年06月13日 07:35
枷で体を拘束する事が出来ます。体の自由は利かなくなります。何が何で拘束されているのか明確に思います。
ですが心は枷で拘束されないですよね。心が何で拘束されているのか、それにより自由が無くなっている事に気がつけるか?そのように教えて頂けているように感じます。
長老の解説・アドバイスから、もう少しじっくり読みなおし・考えてみようと思います。

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