因縁の流れを断ってバラモンよ人の知れない境地に至れ(383)

ダンマパダ 第26章 バラモン 383

流れを努力して断て
バラモンよ、 諸欲望を捨てよ
諸現象の滅尽を知って
バラモンよ、現象を越えた者であれ


〇この詩の蛇足

 この詩から、ダンマパダの最後の章、「バラモン」になります。バラモンとはインドにあるカースト制で最上の階級を意味します。しかし、釈尊はインドの伝統的なバラモンではなく、最高の階級に相応しい人々をバラモンと呼ぶと宣言したのです。ですから、仏教においては、バラモンと呼ばれる人々は阿羅漢であるべきなのです。

 バラモンは、因縁の流れを断ち切って、もろもろの欲望を断ち切って、もろもろの現象は生じても、消えるものであることを知って、現象を越えたもの・・・すべての現象に対するすべての執着を捨てて、・・・涅槃の境地を体得した阿羅漢であれと釈尊は述べられておられるのです。

 ですから、このバラモンの章は阿羅漢の境地が多く述べられます。この境地を体験してない私には荷が重いのですが、なるべくこのブログを読む方が、誤解をしないように注意して書くつもりでが、分かってない者が書いているという前提で特に、この章はお読み下さい。

 少し話しが変わります。仏教の修行を始めると、修行の成果がよく分かる場合もありますが、自分が思うような成果が現れない場合が多いのです。瞑想修行などでは、上手くいかないと悩んだりしますが、上手くいかないことが分かることは進歩なのです。逆に、上手くいった、非常に集中ができて気分が良くなったと思っても、実はその間、眠っていたという場合も結構あるのです。

 そういうわけで、修行にいきずまると、自分は悟れるだろうかと悩む人も多いのです。仏教の修行は悟ることは目標ですが、それは何かを得ることではないのです。自分のものと思っているものを一つずつ、これは自分のものではないと理解して、捨てていくことです。一つ捨てれば、一つだけ軽くなり、楽になるのです。修行の過程がすべて意味があります。ですから、悟れるかどうか悩む必要がないのです。一つ捨てる捨てることができれば、一つ前進で、意味があるのです。捨てることを止めなければいいのです。

 上の詩でも「 バラモンよ、 諸欲望を捨てよ」と述べています。一ぺんに全部は捨てられなくとも、一つずつ捨てていけば、終いにはなくなります。すべてを捨てると、「諸現象を越えた者」になるのです。

〇前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200811/article_19.html
 因縁の流れを断ってバラモンよ人の知れない境地に至れ

〇この詩のパーリ語原文

383.
チンダ  ソータン パラッカンマ
Chinda   sotaṃ  parakkamma,
切断せよ 流れを 努力して
カーメー パヌダ   ブラーフマナ
kāme    panuda   brāhmaṇa;
欲望を  除去せよ バラモンよ
サンカーラーナン カヤン ニャトゥワー
Saṅkhārānaṃ    khayaṃ  ñatvā,
現象の       滅尽を  知って
アカタンニュースィ ブラーフマナ
akataññūsi       brāhmaṇa.
非構成物であれ  バラモンよ

〇因縁の流れを断ってバラモンよ人の知れない境地に至れ(383)


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
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~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~

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この記事へのコメント

やっと見つけました
2009年09月25日 21:38
自分なんてものはない、瞬間瞬間の心が有るだけ、その心は川の水のように、それぞれの水が影響し合って川の流れとなる。ですから生きとし生けるものが幸せでありますように。これが真理です

生きとし生けるものが幸せでありますように
才木広之
2009年09月25日 23:22
悟っても悟らなくても、生きとし生けるものは幸せでありますようには必要です

慈悲の冥想と、ヴィパッサナー冥想とをすればそれだけでいいのです

もっと簡単にいえば、スマナサーラ長老の初心者指導のようにしてれば、いらぬ事を考えず初心者指導をそのままやっていれば、おのずと道は現れてくるという事です
ですから慈悲の冥想は、悟っても悟らなくても必要なのです。だからずっとやってればいいのです。それこそ死ぬまでしてればいいのです。

要するに慈悲の冥想、は前提として必要ということが書きたいだけです。

ただ気づくために、ヴィパッサナー冥想が必要というだけで。僕は個人的にいえば慈悲の冥想を、とにかくしてればおのずと道は現れてくると思います。ただテーラワーダ仏教協会というものがあっての事です、それがない場合は慈悲の冥想をして、道を探しても、たどり着けないという事が始まりますから。日本テーラワーダ仏教協会というものがあって、慈悲の心さえ持っていればいずれはたどりつける道というものが現れてくるという事です。慈悲の心と、日本テーラワーダ仏教協会この二つは自灯明、法灯明であります

生きとし生けるものが幸せでありますように
2009年09月26日 04:54
ワンギーサさん、おはようございます。そうですね。この「捨てる」ことに意義を見い出せれば、何ら「悩む」ことはありませんね。明るい屋外で懐中電灯を捨てるのに心配はいりませんし、捨てればその分軽くなり「楽」になります。はいてる靴を捨てると想像すると怖いかもしれません。何をどう捨てていけば「楽」になれるか。を仏教がしっかり教えてくれます。外で靴を捨てることを想像しないことです。「悟り」という言葉にこだわると、どうしても「得よう」としがちです。受験勉強の世界などとは全く異質です。「やはり懐中電灯を捨てた方が楽だった!今まで実に下らないことをやっていたものだ」というような些細な「納得」も広い意味での「悟り」だと思ってます。有難うございました。
身の丈修行者
2015年06月26日 07:57
本文を拝見し、先日参加させて頂いた実践合宿で、長老が「冥想を、悟るぞ!みたいにするのではなく、(指導者の)言うとおりに実践するとどうなるのか?と科学者の精神でやると良いです」とお話されていたのを思い出しました。
無我に気がつき、自分が大事に抱えよう・守ろうとしているものを捨てる→落ちる事が出来るように精進したいです。

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