好き嫌いない人間に苦悩はない私は彼をバラモンと呼ぶ(385)

ダンマパダ 第26章 385

彼岸も此岸もあるいは
彼岸此岸のない彼に
苦悩と束縛はない
彼を私はバラモン呼ぶ


〇この詩の蛇足

 パーリ語の「パーラ」は、岸、彼岸、対岸、来世、内の六処(眼、耳、鼻、舌、身、意)などの意味があります。「アパーラ」には此岸、現世、外の六処(色、声、香、味、触、法)などの意味があります。ですから、上の詩で、パーラとアパーラを彼岸、此岸と訳しても、その内容はいろいろに取れるのです。そのことについて前回の「この詩から学ぶこと」に書きました。

 初めに、私は彼岸を悟りの世界、此岸の世界を迷いの世界と考えて、この詩を理解しようと思います。悟りの世界は理想の世界です。迷いの世界は世俗の世界です。修行者は、彼岸を望み、此岸から離れようとします。しかし、このような思いがある限り、此岸で生きている限り、彼岸には行けないのですから、悩みはつきません。彼岸に行きたいとも思わず、此岸を嫌うこともなければ、つまり、彼岸・此岸に関する思いのない人には悩みがありません。

 上の話であれば、悟りを求めない人は悩みがないのですが、世間には悟りを求めない人の方が多く、しかし、悩みのある人は多いのです。ですから、彼岸、此岸を悟りの世界や迷いの世界と考えると実状に合わないのです。

 ですから、彼岸、此岸を、好きなものと嫌いなものとします。そうすると、好きなものも嫌いなものも求めない、好き嫌いのない人には悩みがありません。これはその通りなのです。

 何事にも好き嫌いのない人は、苦悩や束縛はないでしょう。そのような人はバラモンと言ってもよいでしょう。

 中国禅宗第三祖鑑智僧璨の「信心銘」の初めの文章は「悟りに至るのは難しくない。好き嫌いをやめればよい」と書いてあります。今回はその言葉を参考に考えてみました。

〇前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200811/article_21.html
 彼・此岸のない彼には苦悩ない私は彼をバラモンと呼ぶ

〇この詩のパーリ語原文

385.
ヤッサ   パーラン アパーラン ワー
Yassa    pāraṃ    apāraṃ    vā,
その人の 彼岸も   此岸も   又は
パーラーパーラン ナ ウィッジャティ
pārāpāraṃ      na   vijjati;
彼岸・此岸も   ない 存在する
ウィータッダラン ウィサンユッタン
Vītaddaraṃ     visaṃyuttaṃ,
苦悩から離れ   束縛から離れた
タマハン ブルーミ ブラーフマナン
tamahaṃ  brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は 呼ぶ   バラモンと

〇好き嫌いない人間は苦悩ない私は彼をバラモンと呼ぶ(385)


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
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この記事へのコメント

2009年09月28日 02:26
ワンギーサさん、おはようございます。この文脈では「好き嫌いのある=無知、痴」「好き嫌いのない=無知のない智慧、不痴」という意味なのでしょうか?なぜそのような疑問が生じたかと言えば、「極限的な無知」の状態でも「好き嫌い」がないような気がするからです。よく実感できる範囲では「全く無関心な人」に対しては「好き嫌い」はありません。ところで、智慧の完成者である阿羅漢の境地も全く実感できませんが、完全無知な境地もさっぱり実感できません。ただ、マインドコントロールを完全にされた場合は「自己放棄、全ての判断能力の放棄」ということがあり得るんじゃないかと。もしそうであるならば、そんな状態でも全く「好き嫌い」なく生きることが可能かな~と。そんな疑問がふと湧いてきました。有難うございました。
才木広之
2009年09月28日 02:31
新さん以前の私の発言をお許し下さい

すみませんでした
2009年09月28日 03:23
懺悔いたします。無明の闇に覆われて、身・口・意の三業によっておかしてしまった過ちがあります。仏法僧に対する過ち、恩師に対する過ち、生きとし生けるものに対する過ち。これら一切の過ちを懺悔いたします。…私は懺悔いたします。
pun
2009年09月28日 05:50
 子供の頃、母から、好き嫌いなく食べなさいと、教わってきたのですが、最近、母は、自分が好きなものしか食卓にならべないと言っていました。自分は好き嫌いを言い、他人には好き嫌いを言わせない。だから、おそらく、私も納得できずいろいろと文句を言ったのです。弟は、賢いので、嫌いな料理は何も言わずに、残していました。

 好き嫌いなく、好き嫌いの感情に左右されることなく生きる。世間でよく言われる、私も少年時代から耳にしていた理想的な生き方を、実践する道筋が、仏法僧のおかげで見えてきました。

 バラモンの生き方、聖人君子の生き方に、近づけるようこれからも精進してまいりたいと思います。ありがとうございました。

 幸せでありますように。
あっきん
2009年09月28日 09:47
おはようございます。
人は自己中心的です。私もこのプログの書き込みをしたりしなかったり、勝手にしています。
見る人によっては、好き・嫌い・面白くないと判断されるでしょう。しかしあっきんが生息しているのは事実です。自分勝手でなく正しく物事を見ると、真実が見えてくる。
ではここで質問です。慈しみある人から指摘を受ける。その時どう思いますか? 
ありがとう・うるせ~・私が正しいんだ面白くないと逆にキレる
人から文句を言われたら良い気持ちはしないでしょう。でも相手を思い率直に指摘してくれるのが、善友。
世界は自分中心に動いてません。
なので生きとし生けるものは幸せでありますように。
ワンギーサ
2009年09月28日 15:45
新さんへ。参考意見です。
「『極限的な無知』の状態でも「好き嫌い」が ないような気がするからです。」は正確な観察ではありません。極限的な無知でも、自動的な「好き嫌い」をやっているのです。
 下等生物の粘菌でも、自動的でも好き嫌いをやっていて、甘いものに近づき、辛いものを避けて移動するそうです。一般に甘いものは栄養があり、辛いものは毒があるからです。そういう訳で、すべてに好き嫌いをしないためには智慧が必要なのです。
2009年09月28日 18:03
ワンギーサさん、ご指導有難うございました。なるほど納得できました。確かに、悟った阿羅漢以外、すべての生命には「渇愛」がありますね。有難うございました。
髙橋優太
2009年09月28日 21:21
ワンギーサ先生、皆様、今晩は。
最近、自分がちょこちょこ悪いこと(無駄話、電気のつけっぱなしなど)をしていると気づきました。日常でも人に迷惑をかけないよう、気をつけます。ありがとうございました。一切の過ちを懺悔いたします。生きとし生けるものが幸せでありますように。生きとし生けるものに悟りの光があらわれますように。
身の丈修行者
2015年06月27日 09:29
本文の「好きなものも嫌いなものも求めない、好き嫌いのない人には悩みがありません。これはその通りなのです」心に響きます。また「悟りに至るのは・・好き嫌いをやめればよい」も興味深く感じました。
好き・嫌い・・との思考(?)が回転しない域で生きて参りたいです。

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