田の草のような貪欲のない人に施しすれば果報は大きい(356)

ダンマパダ 第24章 渇愛 356~359

田畑は雑草に荒されるように
人々は貪欲に荒される
それ故に貪欲のない人に布施すれば
大きな果報がある(356)

田畑は雑草に荒されるように
人々は怒りに荒される
それ故に怒りのない人に布施すれば
大きな果報がある(357)

田畑は雑草に荒されるように
人々は無知に荒される
それ故に無知のない人に布施すれば
大きな果報がある(358)

田畑は雑草に荒されるように
人々は欲求に荒される
それ故に欲求のない人に布施すれば
大きな果報がある(359)


○この詩の蛇足

 布施は重要な善行為なのです。布施とは、自分の物を他人に与えることですから、自分の欲に反する行為なのです。そこには欲から離れるという自分が考えている以上に大きな善心が働いているのです。また、相手が困っている場合には、相手を助けようとする「慈悲の心」があります。また、困ってない時は、相手が喜ぶことを願う「喜の心」があります。布施がある時は離貪と慈悲喜捨の心があるのです。

 仏教では布施を、農作業における種まきに例えて考えます。畑に種を蒔くと、作物は芽が出し、大きく生長して果実を作ります。そのように、布施という善行為の種を蒔くと、その種は芽を出し、その果実を作るように、善行為は芽を出し、果報という果実を作ると考えているのです。このことを理解しないと、今回の詩の意味は少し分かり難いかもしれません。

 つまり、種を蒔くとき、雑草のたくさん生えた荒れた畑に、種を蒔くと、果実はできないか、できても少ししかできないのです。そのように、布施という種を貪欲な人に蒔いてもあまり果報が期待できないというのです。逆に、貪欲という雑草がない、よい畑に蒔いた布施は、その果実である果報が大きいというわけです。雑草もいろいろあります。貪欲の他に、怒りや無知や欲求などです。

 上の考え方は、現代日本人はどう思うでしょか。もしかしたら差別だなどと思うかもしれません。しかし、悪人を助けたら、悪が広がる恐れがあることも考えて見て下さい。前回の「この詩から学ぶこと」にもいろいろ書きました。参考にして下さい。この詩から学ぶことは多いのです。

○前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200810/article_28.html
 田の草のような貪欲のない人に施しすれば果報は大きい
 
○この詩のパーリ語原文

356.
ティナドーサーニ ケッターニ
Tiṇadosāni      khettāni,
雑草で荒される  田は
ラーガドーサー アヤン パジャー
rāgadosā      ayaṃ   pajā;
貪欲で荒される この   人々は
タサマー ヒ ヴィータラーゲース
Tasmā   hi  vītarāgesu,
それ故 実に 離貪の人に
ディンナン ホーティ マハッパラン
dinnaṃ    hoti     mahapphalaṃ.
施しは    です    大きな果報
357.
ティナドーサーニ ケッターニ
Tiṇadosāni      khettāni,
雑草に荒される  田は
ドーサドサー   アヤン パジャー
dosadosā      ayaṃ   pajā;
瞋恚に荒される この   人々は
タスマー ヒ  ヴィータドーセース
Tasmā   hi   vītadosesu,
それ故 実に  離瞋の人に
ディンナン ホーティ マハッパラン
dinnaṃ    hoti     mahapphalaṃ.
施しは    です    大きな果報
358.
ティナドーサーニ ケッターニ
Tiṇadosāni      khettāni,
雑草に荒される  田は
モーハドーサー アヤン パジャー
mohadosā      ayaṃ  pajā;
愚痴に荒される  この  人々は
タスマー ヒ  ヴィータモーヘース
Tasmā   hi   vītamohesu,
それ故 実に  離痴の人に
ディンナン ホーティ マハッパラン
dinnaṃ    hoti     mahapphalaṃ.
施しは   です    大きな果報
359.
ティナドーサーニ ケッターニ
Tiṇadosāni      khettāni,
雑草で荒される  田は
イッチャードーサー アヤン パジャー
icchādosā        ayaṃ  pajā;
欲求で荒される    この  人々は
タスマー ヒ  ヴィガティッチェース
Tasmā   hi   vigaticchesu,
それ故 実に  離欲の人に
ディンナン ホーティ  マハッパラン
dinnaṃ    hoti     mahapphalaṃ.
施しは    です    大きな果報

○田の草のような貪欲のない人に施しすれば果報は大きい(356)
○田の草のような怒りのない人に施しすれば果報は大きい(357)
○田の草のような愚鈍のない人に施しすれば果報は大きい(358)
○田の草のような欲求のない人に施しすれば果報は大きい(359)

~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~


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この記事へのコメント

2009年09月05日 04:37
ワンギーサさん、おはようございます。これは自業自得、自己責任論で考えるしか理解できません。信じれば病気が治る。金持ちになれる。そうしたご利益を私が望んでいるのなら、それをしてる宗教にお布施するなりするでしょう。そうでない時はどうなる?これはなるべくしてそうなる。と理解するより仕方ありません。一種の縁です。仮に阿羅漢にお布施できるチャンスが巡ってきたらば、それはすごい縁です。この考えでいけば、今日ワンギーサさんが問題提起された悪人の悪行為を助けるようなお布施など、そもそも成り立たない。と言えます。高慢チキかもしれませんが、正法(八正道)を正しく実践していれば、人の悪行為に加担することが減り、徳の高い人の善行為の手助けばかりが増えていくのが「法則」として成り立つのだと考えて(仮説)ます。ところで、これはむしろ「法施」のケースがわかりやすいです。お釈迦様の時代、目と鼻の先に住んでる人で全く無関心な人がいたそうですね。又、お釈迦様は人が悟る能力があれば、遠くても出向かれたそうですね。ギブ&テイクは法則で成り立っているのではないか?という証明はわかりません。有難うございました。
2009年09月05日 05:21
話が脱線しますが、水戸の黄門さまは「善を助け悪を懲らしめ」ました。日本人にはかなりの人気ドラマです。ドラマの中の虐げられた善人は水戸黄門と知らずとも、自然に施しをします。一方の悪人はただの老いぼれと思って斬りかかります。最後は善が報われ、悪は裁かれます。そして、何故かこんなところにしか黄門さまは関わりません。ひとつのモデルとして思い浮かびました。有難うございます。
2009年09月05日 06:35
ポイントはあくまで「自分」だと思うんです。欲から離れよう、心をきれいにしようという人が、確率的に徳の高い方にお布施できる。また過去の業がいいのかもしれません。いずれにせよ、自分です。「悪人を助ける。」とありますが、日頃の行いがよければそういうことに遭遇しないのかもしれません。遭遇したとしても、悪行為を踏み届ませるのでしょう。例えば道を聞かれたとします。自分が善心を開発していれば、これから悪さをしようとする気持ちがとんでしまい、そして一方で、教えてあげる人は善行為を為す人ばかりになっていくのでしょう、きっと。今日の詩から自分なりにそんな教訓だと思いました。相手が高貴と評判だから(欲で)お布施するのではなく、自分が欲から離れようと欲する真の心が、真に高貴な方へのお布施を可能にするのだと思います。それが、結果的に更に自分の秘めた「欲望」から遠ざかる行為につながっていくのだと思います。有難うございました。
あっきん
2009年09月05日 07:54
おはようございます。
布施の善行為をする人、受ける側(阿羅漢、徳の高いお坊様)はプラスとプラスですね。
怪しい宗教にお布施すると、マイナスとプラスで、これでは道徳感の自分・相手・全てがよい道からずれていると思います。日本テーラーワーダ仏教協会に布施をする。でもお坊様は質素な生活をしているのを知ってます。例えば何か移動の時の交通費等に使われ悪用してません。なので私も協力する。以前より欲の執着が減った感じです。そして世の中に仏陀の教えがもっと広まれば、救われる人が多いと思います。知らない事が時として、怖い場合があるのだと思います。
あっきんのプラス追加
2009年09月05日 08:04
ワンギーサさんがこのプログでダンマパダの種をまき、芽が出て成長してますね。初めはうちうちでやって、私もあまり内容まで読んでませんでした。(懺悔)これは、仏陀のパワーとワンギーサさんの善行為の結果だと思います。まさにダンマパダのとうりですね。
生きとし生けるものは幸せでありますように!
2009年09月05日 09:25
そう、テーラワーダのお坊様にお布施する瞬間って人生ですごい瞬間なんです。こちらが不純な動機だと完全に拒否されてしまうかも(ホントだよーん)。お坊様と接する時、この「お布施」の瞬間に自分の悪心がでないよう常に「心」を磨いておく必要があるんですね。本物の出家の世界は凄すぎると感じる時があります。幸い私は「お布施」させて頂くことができました。この功徳をすべての生きとし生けるものに回行いたします!!
2009年09月05日 20:25
回行じゃなくて、回向でした(^_^;)。
身の丈修行者
2015年06月15日 07:55
布施をお坊様にする事を促される・・様な解釈でなく、自分の「欲・怒り・無知・欲求」を無くす為の・・として捉えたら分かり易いように感じました。
また、言葉で拝見しても実際にその様に生きている方の生き様を見れないと、実際には身に着かないと思います。体感する機会を得られる事はその後の成長に繋がるように感じます。
お布施身の丈で出来る事をさせて頂きたいです。

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