水滴でハスの葉濡れぬそのように欲で汚れぬ彼はバラモン(401)

ダンマパダ 第26章 バラモン 401

ハスの葉の水のように
きりの先の芥子粒のように
快楽に汚されない人
彼を私はバラモンと呼ぶ


〇この詩の蛇足

 この詩の因縁物語は次のようなものです。かつてウッパラワンナー(ハスのように美しい)長老尼が森のなかで、暴漢に犯されたことがありました。それに、ついて比丘たちが話していて、その一人が「尊者よ、阿羅漢も普通の人間と同じように、性交時に快楽というものがあるでしょうか?」と質問しました。仏陀は「ハスの葉の水のように きりの先の芥子粒のように 快楽に汚されない人 彼を私はバラモンと呼ぶ」と上の詩のように説かれたということです。

 今の日本人はハスの葉の表面がどのようになっているか知らない方が多いと思います。渋谷区幡ヶ谷のゴータミー精舎の玄関前にハスがあります。いらっしやってハスの葉を触ってみてください。ハスの葉の表面は、桃の実の皮のように、うぶ毛で覆われています。そのため、水は葉に落ちても、水は直ぐ水滴になって葉からこぼれるのです。

 また、木などに穴を開ける「きり」の先は尖がっています。芥子粒は、胡麻より小さな丸い種ですから、その種をきりの先に乗せれば、種は直ぐ落ちてしまいます。「ハスの葉の水のように きりの先の芥子粒のように」とは、留まることなく直ぐ、落ちてしまうことです。ですから、性交時の感覚をハスの葉と水滴やきりと芥子粒で譬えたことは快楽を感じる前に落ちてしまうということです。

 「ハスの葉の水のように きりの先の芥子粒のように」はヴィパッサナー瞑想を実践する時も大切な感覚なのです。ヴィパッサナー瞑想中の必要なことは①スローモーション、②実況中継、③感覚を感じることです。この③の感覚を感じる時、感覚はどんどん変化していますから、一つの感覚に留まっていてはいけないのです。次から次に新しい感覚を感じて行かなければ、事実に反します。ヴィパッサナー瞑想を真剣に行うとかなり忙しいのです。阿羅漢は一つの感覚に留まって、その感覚に執着することなどないのです。ですから快楽に心が汚されることはないのです。ウッパラワンナー長老尼は阿羅漢だったのです。


〇前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200812/article_9.html
 水滴でハスの葉濡れぬそのように欲で汚れぬ彼はバラモン

〇パーリ語原文

401.
ワーリ ポッカラパッテーワ
Vāri   pokkharapatteva,
水    ハスの葉の ように
アーラッゲーリワ  サーサポー
āraggeriva       sāsapo;
きりの先に ように  からし粒
ヨー ナ  リンパティ カーメース
Yo   na  limpati    kāmesu,
人  ない 汚れる   情欲に
タマハン ブルーミ ブラーフマナン
tamahaṃ  brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は 呼ぶ   バラモンと

水滴でハスの葉濡れぬそのように欲で汚れぬ彼はバラモン(401)


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~



◎お願い:今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』をクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。

この記事へのコメント

2009年10月14日 04:45
ワンギーサさん、おはようございます。実は昨日の午後、渋谷区幡ヶ谷にあるゴータミー精舎という所に行ってまいりました。本堂に行ってみると、どなたかいらっしゃいましたが、直に私ひとりになりました。瞑想実践です。そして感覚を実況中継しました。歩行瞑想を中心に三時間ほどです。確かに「感覚」そのものを「実況中継」すると、かなりハードな作業です。その後、一階に降りて二時間ほど色々有意義な話しをしてから帰宅しました。ちなみにワンギーサさんという御方は不在のようでした。ハスの花の葉には触れませんでしたが、一ミリくらいはハスの葉に近付けたようでした。平日のせいか、ゴータミー精舎はハスの花のような女性ばかりでしたが、私はハスの葉に落ちる水滴のごとく…(でも一滴くらいは欲の感情が残ったような…あひ!)。ともあれ充実した一日でした(笑)。有難うございました。
PUN
2009年10月14日 08:07
おはようございます。民放のテレビや雑誌だと、美人であることはメリットがあるとされます。仏教の世界だと、美人というのはデメリットであるとまでは言わないにしても、あまり美人であるということを重要視されていないように見えます。美女のことを考えていると天国だと、私なんかは思ってしまいますが、昨日『パティパダー』10月号の「八正道大全」という連載の「出世間の正語」というところを読み、ヴィパッサナー瞑想の達人たちの世界は、本当に雲の上の世界であることが感じられ、美女に欲を感じている世界のことが、天国には思わなくなりました。天国はもっとずっと高い場所にあったのです。ワンギーサさんも、この記事で、ヴィパッサナー瞑想を真剣に行っている人は忙しいと書かれていらっしゃる。暴漢は、釈迦の掌の上の孫悟空だったのかもしれません。ウッパラワンナーさんは本当の高嶺の花です。
才木広之
2009年10月14日 20:05
真理を見られていない以上、コメントには、思いますの一言は必要のように思います、所詮わたしたちは、愚かもので世の中を妄想で見ているのですから。真理を見ていなく、妄想で見ているのだから、真理を学んでいこうとの立場で話すのであれば、真理をまだ見ていないのであれば、真理を前提として話すなら、お釈迦様の御言葉に対しては、「思います」をつけるのがせめてものお釈迦様への対し方であると今思いました

生きとしけるものが幸せでありますように
2009年10月14日 21:15
なるほどです。愚か者の特徴として、「思います」と言いつつもちゃっかし意見をごり押しするタイプや、「そうだ」と言って、てっきり断定形かと思いきや単なる感想というケースもあるのだなあと思いました。
才木広之
2009年10月14日 21:23
もっともだな~と思いました。

生きとし生けるものが幸せでありますように
身の丈修行者
2015年07月02日 07:53
本文の「感覚を感じる時、感覚はどんどん変化しています・・一つの感覚に留まっていてはいけない・・次から次に新しい感覚を感じて行かなければ、事実に反します」心に響きます。
冥想中感覚から→認識→妄想に入った自分に気がつき、はっとして妄想とサティを入れる事はしばしばあります。川の流れで言うと途中で横道にそれた水たまりのような感じでしょうか。そこに留まっても妄想が膨らむばかりで流れません。
本文のポイントに気をつけて実践して参りたいです。

この記事へのトラックバック