在家とも出家にも会わず無執着満足している彼はバラモン(404)

ダンマパダ 第26章 バラモン 404

在家者にも出家者にも
また両者にも交わらず
無執着で満足している人
彼を私はバラモンと呼ぶ


〇この詩の蛇足

 この詩を何度か読んでどのように感じますか?
普通、あまり共感しないのではないかと思います。私が出家する何年か前、スマナサーラ長老にこの詩について、質問しました。「理解できない」という質問 だったと思います。スマナサーラ長老は無理に説明せずに、「阿羅漢のことですからね。」とだけ応えられたと思います。これは阿羅漢の境地なのだから、分か らなくて当然と思われたのではないかと思います。

 この詩に反発を感じる人はたくさんいると思います。これらの人々は人間は人々と積極的に交わるべきだ。それが人間のあるべき態度だと思っているです。
 また、この詩に反発は感じなくとも、このような人生は惨めだ、不幸だと思う人もいるでしょう。
 あるいは、この詩に共感を感じるが、このような人生を自分に出来ない、またはしたくないと思う人もいます。しかし、これこそ人生の理想だと、しみじみと 共感し、このような生き方をしたいと思う人もいると思います。なぜ、このような受け取りかたの違いがでるのでしょうか?生き方や幸福に対する考え方が違う からでしょう。

 今だから言えますが、私が出家した初めは、人生の苦しみから抜け出すために、輪廻の苦しみから解脱すためにと決意して出家したのですが、やはり一人にな ると寂しいのです。それまでは孤独などあまり感じてはいませんでしたが、若者のように人生は孤独だなとつくづく思いました。また、これは私だけではないの だと言うことも分かりました。人はみんな寂しいのだと思いました。

 しかし、仏教を学んで出家したわけですから、私たちはいろいろな物や人々に依存して、執着して生きて生きているから、寂しいのだということも分かってい ました。それが実感できるようになったのです。人は人交わりたいと思い、誰にも交わらない生活は嫌だと思うのが当然だろうと思いました。ですから、上の 詩のようにだれにも交われないことには共感できないだろうと思います。

 一方、出家したことによる家族や職場の人間関係などへの執着がなくなった穏やかな生活への満足感というものも現われました。ですから、「在家者にも出家者にも また両者にも交わらず 無執着で満足している人」の安らぎはいかばかりかとも思えるのです。

 この詩の「無執着(アノーカサーリン)」は直訳すれば「家なくして遊行する」ですが、パーリ語辞書によれば、それは無執着のことであるとありますのでこ のように訳しました。また「満足(アッピチャ)」は直訳は「小欲」です。しかし、スマナサーラ長老によれば、アピッチャには喜びの意味があると言われます ので、小欲より満足の方が適切だと判断しました。辞書にも「満足」も記載されています。無執着とは阿羅漢のことであり、満足こそが幸福です。このことが分 かるように訳の事情を述べました。


(以上、2008年12月12日の記事再掲)


〇パーリ語原文

404.
アサンサッタン ガハッテーヒ
Asaṃsaṭṭhaṃ   gahaṭṭhehi,
交際しない    在家者にも
アナーガーレーヒ チューバヤン
anāgārehi       cūbhayaṃ;
出家者にも     又 両者にも
アノーカサーリ マッパッカン
Anokasārim   appicchaṃ,
家なく遊行する 少欲な
ハマハン ブルーミ ブラーフマナン
tamahaṃ  brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は 呼ぶ   バラモンと

〇在家とも出家にも会わず無執着満足している彼はバラモン(404)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~



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この記事へのコメント

2009年10月17日 02:06
ワンギーサさん、おはようございます。『偉大なる人の思考』のp61から引用してみます。「関わりがないことを楽しむ人の楽しみは、誰にも消すことはできません。これも依存症の問題です。俗世間は極度に依存症で悩んでいる。自由になりません。偉大なる人には依存症はないのです。仏道を励む人々も、誰かに依存すること、誰かに認めてもらうこと、ではなくて、何ものからも離れる喜びを味わうように頑張らなくてはいけない、ということなのです。」有難うございました。
2009年10月17日 02:30
ワンギーサさん、「怒り」で人々と交わったり、関わったりすることがよくあるかと思います。バラモンという形容詞が似合うと評されたイチロー選手にしても、双葉山にしても、「勝負の世界」で生きていながら、自分との闘いに専念し、単なる「勝ち負け」を乗り越えてるように思えます。他との競争心やライバル意識は「怒り」なのでしょうが、彼らはそんなことから無縁であるが故に「偉大」な存在だと感じます。仏教をこうして学ぶ上で「怒り、競争心、嫉妬」などの感情をムキ出しにしたらいけないな~と思いました。仏教を「勝ち負けの世界」にしてはとても危険だな~と思いました。「嫉妬心や落ち込み」で人里離れた所に引越して生活するのは論外だな~と思いました。有難うございました。
PUN
2009年10月17日 07:58
おはようございます。「犀の角のようにただ独り歩め」十年くらい前、最初に印象に残ったブッダのことばです。十年前の自分がどうこの言葉を受け取ったかは忘れてしまいましたが、今日のワンギーサさんの書き込みによって、聖者の孤独のことを仰っていたと気づきました。
あっきん
2009年10月17日 10:21
おはようございます。
確かに、逆に考えると分かります。買い物依存症・パチンコ依存症・アルコール依存症とかいろいろあります。
心が飢えているから要求し止められない訳ですね。
満たされれば、要求の必要ないと私的に思いました。
人とは弱いものなのですね。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
ときこ
2009年10月17日 17:40
ワンギーサ様
手元に、中村元氏訳による、岩波文庫の「ダンマパダ」と「スッタニパータ」があります。読んでおりましたら、404の訳注に、スッタニパータ628に同じと言う箇所があり、そちらの註に次のような箇所があります。『「出家者とさえ交わらない」と言うのであるから、サンガによる共同生活以前の段階である。』この解釈は、中村先生の独断ということでしょうか? この点について、テーラワーダ仏教による解釈はあるのでしょうか?
髙橋優太
2009年10月17日 18:09
ワンギーサ先生、皆様、こんばんは。
人に依存してばかりだなあと感じました。とりあえず無駄な人間関係をやめてみます。生きとし生けるものが幸せでありますように。
ワンギーサ
2009年10月17日 18:54
ときこさんへ。
「出家者とさえ交わらない」は自分の意思で一人で森の中などに入り瞑想修行をすることです。「サンガによる共同生活以前の段階であるから、出家者とさえ交わらないというのであれば、バラモンの境地を表現したことにはならないと思います。私は、この詩ではバラモンの境地を述べているのだと思います。尚、テーラワーダの比丘でもこの詩に対していろいろな理解をする人がいると思います。以上私の見解です。どう受け止めるかはときこさんの自由です。
ときこ
2009年10月17日 22:13
ワンギーサ様
お返事有難うございます。中村元氏の説でなんとなく納得できず、質問いたしました。「交わらず」と言う事より、「無執着で満足している」事のほうに、重点を置いた教えと理解いたします。
身の丈修行者
2015年07月03日 08:17
本文の「私たちはいろいろな物や人々に依存して、執着して生きて生きているから、寂しいのだということも分かってい ました。それが実感できるようになったのです」心に響きます。
何かに依存・執着しなくても心が安定して穏やか・・はなかなか出来るものではないと感じます。ですがそれが出来れば本当の意味での心の安定・安らぎを得られるように感じます。それが智慧で分かるように精進したいです。

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