一切の快不快を捨てて冷静で煩悩のない彼はバラモン(418)

ダンマパダ 第26章 バラモン 418

快と不快を捨てて
冷静となり煩悩のない
全世界を征服した英雄
彼を私はバラモンと呼ぶ


〇この詩の蛇足

 2008年12月26日に書いた「この詩から学ぶこと」に書いたことは、現在もその通りに思いますので、以下再掲載します。

 やはりバラモンの世界を解説するのは大変です。一般人、凡夫には、想像できない、たとえ想像はできても、実はそんな世界は望まない世界だからです。このブログで書いていても読む人の反発を感じてしまうのです。

 「快を捨てて」は感覚の楽しみを捨ててという意味です。私たちは、感覚の楽しみのために生きているのですから、信じられない世界なのです。いろいろ面白 いものを見ることを楽しみに生きています。音を楽しむため、テレビや街頭でも一日中音楽が流れています。そして、美味しいものを食べたいために、一生懸命 働いています。感覚の楽しみを捨てたら、何のために生きているのかと思うでしょう。

 「不快を捨てて」は不快は嫌なものですから捨てるという意味とは少し違うのです。修行者の中には、自分の肉体に苦痛を与えることが修行だと思って、苦行 をするのです。それらの人々は「不快」を好んで受け入れるのです。ですから、「不快を捨てて」の意味は苦行を捨ててという意味です。

 ですから、「快と不快を捨てて」とは快楽を望まず、苦行も捨てて、感覚を管理して八正道の中道を歩むと言う意味です。

 八正道の中道を歩むと、冷静になります。そして煩悩がだんだんなくなります。

 「全世界を征服した英雄」について。仏教では「全世界」とは眼の世界、耳の世界、鼻の世界、舌の世界、身の世界、意の世界で構成されていると考えます。

 「征服した」とは管理したという意味です。ですから、「眼の世界、耳の世界、鼻の世界、舌の世界、身の世界、意の世界」において、快と不快を捨てた人は これらの世界を管理できる人なのです。そして、ダンマパダ103番にあるように、「戦場において百万人に勝つよりよりも、一人の自分に勝つ人は英雄であ る」と述べられているように感覚の快不快を管理する人は、自分に勝つ人であり、その人は英雄なのです。そして彼はバラモンなのです。


〇前回の「この詩から学ぶ」

http://76263383.at.webry.info/200812/article_26.html
 一切の快不快を捨てて冷静で煩悩のない彼はバラモン

〇パーリ語原文

418.
ヒトゥワー ラティンチャ アラティンチャ
Hitvā    ratiñca     aratiñca,
捨てて   快と      不快と
スィーブータン ニルーパディン
sītibhūtaṃ     nirūpadhiṃ;
清涼となり    依処のない
サッバローカービブン ウィーラン
Sabbalokābhibhuṃ    vīraṃ,
全世界を征服した   英雄を
タマハン ブルーミ ブラーフマナン
tamahaṃ  brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は 呼ぶ   バラモンと

〇一切の快不快を捨てて冷静で煩悩のない彼はバラモン(418)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~



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この記事へのコメント

才木広之
2009年10月30日 23:29
何事にもとらわれずに、心、そのものが、独り立ちすること。心に、自我は成り立たず、互いに影響しあって初めて心は成り立つであろう。その心からも離れれば、まるで宇宙船から、地球を見るように、そのようになるであろう。

生きとし生けるものが幸せでありますようにと願います
2009年10月31日 02:31
ワンギーサさん、おはようございます。質問があります。施本「お釈迦様のお見舞い」のp74にこうあります。「苦しみはいやだと思ってしまうと、それは怒りです。楽しみは気分がいいと思って入り込んでしまうと、それは欲です。だから楽しい感覚を目指してウ゛ィッパサナー実践することは、自粛したほうがよいのです。楽しくなろうとも、苦しくなろうとも、不苦不楽であろうとも、それは「感覚」であって無常なのです。ひっかかってはいけません。一切の感覚に対して無執着になろうという気持ちで、ブッダの説かれた修行方法を実践すれば、解脱という大果を得られることになるのです。」。ここでは「苦の感覚に無執着=怒りの髄眠煩悩の滅」という意味かと思われます。この意味で、今日の「不快」を解釈すると間違えなのでしょうか?確かに「不苦不楽」が記述されてないのでそうかもしれないとは思いますが、宜しくお願いいたします。有難うございました。
ワンギーサ
2009年10月31日 07:56
新さんへ。いつもコメントありがとうございます。
 怒りという感情は、反発するエネルギーですから、捨てるということは自然なことです。それをわざわざ捨てると言っているのですから、この場合は不快を求めているので、怒りとは違うのではないでしょうか。不快にたいする欲と解釈しました。
 新さんに一言忠告、新さんは反論されるとむきになる傾向がありますから、自分の考え方を変える必要はありませんが、人はそう思うのかと冷静に受けとめた方がいいと思います。
 今後もコメント宜しくお願いします。
2009年10月31日 08:14
ワンギーサさん、ご指導有難うございます。苦行というのが、俗世間的にはどう解釈されるのか?変な話ですが、例えばマゾヒスト的な要素みたいなことを言っているのか、その辺ですね。ランナーズハイの場合はどうなのでしょう。現代社会で「楽」はとても分かり易いですが、苦行(断食行など)はあまり身近でないと思われるので、分かり易い比喩があったらな~と思いました。有難うございました。
PUN
2009年10月31日 09:06
おはようございます。新さんの俗世間の苦行ということで、思い浮かぶのは、残業というのがあります。仕事をさっさと終えたから一時間早く帰ります、なんて人は日本じゃ見たことがないということです。残業一時間というのは、よくあります。残業の反対語は思い浮かびません。スマナサーラ長老の仰るように、合理性というのは日本には見当たらないのです。ブッダの教えは、病院で出る食事のように、味も素っ気もありません。しかし、その教えに触れていないと、なんだか欲と怒りと無知が強くなるような傾向があるような気がいたします。だからまた書き込みさせていただきます。生きとし生けるものが幸せでありますように。
身の丈修行者
2015年07月08日 07:35
無知の状態から、欲には切りがない・・、本当の自分ってない?、ドラゴンボールみたいに○○を得ると幸せになれるは違う・・と嫌でも日々感じる機会があると思います。そこで「あれ?」と思った時不安定になり、何かにしがみ付こうとしてしまうと想像します。
お釈迦様・スマナサーラ長老・ワンギーサ長老らとご縁を持て、そして少しずつでもこちらで学べたら、真理に気がつく機会に繋がるのではと思います。
自分の心に気がつき、そして成長させる事の大切さが分かり、それはお釈迦様の教えに答えがあった事を多くの方が知り・実践出来ると良いなと願います。

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