執着は前にもなくて後にも中間にもない彼はバラモン(421)

ダンマパダ 第26章 バラモン 421

前にも、後にも、
中間にも何もない
何もない無執着な人
彼を私はバラモンと呼ぶ


〇この詩の蛇足

 以下の文章は理屈ぽくなってしまいました。昨日はカティナ衣大法要で半分徹夜でしたから、頭が疲れたせいでしょう。理屈ぽい文章が嫌いな方は、前回の「この詩から学ぶこと」をお読み下さい。・・・・・

 あなたは時間はどのように流れていると思いますか?ある人は、時間は未来から現在を通り、過去に流れていくように感じているのではないのでしょうか。しかし。ある人は逆の感覚を持っています。時間は過去から来て、現在を通って未来に向かって進むと思っています。この違いはどこからくるのでしょうか?これは時間と自分の関係を、自分が止まっていて時間が動いていると考えると、時間は未来から過去に進むと感じられます。逆に、時間が止まっていて自分が進むと、時間は過去から未来に進むように感じられます。

 上に書いた時間がどう流れているかという問題はあまり重要ではないのです。時間と自分の動きはどちらも止まってなく、どちらも動いているのが事実だからです。しかし、考え方により時間に対する感じ方が変わるということが重要なのです。時間というものは実在ではなく、観念だということを言いたいのです。つまり、時間は実際にあるのではなく、頭で考えているものなのです。

 上の421番の詩の、「前、後、中間」という言葉はそれぞれ、辞書的には「過去、未来、現在」を意味しますが、人によっては未来、過去、現在と考えても良いでしょう。中間は現在で変わりありません。過去の時間は観念の中にしかなく、現実にはありません。未来の時間についても同様なことが言えるのです。未来は今現実には何も存在してないからです。現在の時間だけは今現在あるのですから、あるといって言いようですが、過去の時間も未来の時間もないのであれば、時間というべきものがあるでしょうか。現在にあるのは、現在の時間ではなく、現在なのです。以上の結論は、時間は過去にも未来にも現在にも実在しないということです。

 時間がないとき、何かが存在できるでしょうか?仏教は認識によって存在していると考えます。つまり、認識と認識の対象によって存在するのです。

 この詩の「前にも、後にも、中間にも何もない」は、過去もなく、未来もなく、現在も何もないということで、認識がないということです。すなわち心がないということです。心もないのが阿羅漢の境地ということですと、凡夫には想像することのできない境地だと言う他はありません。


〇前回の「この詩から学ぶこと」

http://76263383.at.webry.info/200812/article_29.html
 執着は前にもなくて後にも中間にもない彼はバラモン

〇パーリ語原文

421.
ヤッサ  プレー チャ パッチャー チャ
Yassa    pure  ca    pacchā    ca,
その人の 前 と     後      と
マッジェー チャ ナッティ キンチャナン
majjhe     ca   natthi   kiñcanaṃ;
中間      と  ない   何も 
アキンチャナン アナーダーナン
Akiñcanaṃ    anādānaṃ,
何もない     無執着の人
タマハン ブルーミ ブラフマナン
tamahaṃ  brūmi   brāhmaṇaṃ.
彼を私は 呼ぶ   バラモンと

〇執着は前にもなくて後にも中間にもない彼はバラモン(421)


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~



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この記事へのコメント

2009年11月02日 03:16
ワンギーサさん、おはようございます。昨日はお疲れ様でした。確かに理屈っぽく感じますが、なまじ頭で理解してしまうのもどうか。とは感じました。前回でのコメントは、「時間の感じ方の違いから時間の非実在性を感じとった」といったところでしょうか(不適切な表現かもしれません)。時計の秒針が盤の中を過ぎ去る感覚と、秒針とともに突き進むような感覚との差から生じたものかもしれません。しかし、秒針という対象をとっているので、やはり「時間感覚」はそこにあるのでしょう。そこから先には「頭で考えても」無理がありそうなことくらいは分かります。~ちょっと理屈ぽくなりますが、何かの限界や否定が分かることは「それが何か?」をわかったことを意味しません。「ある主張は間違いである」ということがわかったからといって「何が真理なのか?」を知ってるとは言い難い。政治評論家の批評のおかしさがわかっても、それは自身が「正解」を知ってることとは別問題です。~「瞑想でしか知り得ない」ものだと知ったということと、「瞑想で知った」ということとは別という意味です。コメントして「観念的思考の限界」を感じました。有難うございました。
2009年11月02日 04:27
今、ざっと以前の「この詩から学ぶこと」に目を通してみましたが、それには「瞑想すれば悟れます」みたいな表現が散見されます。この場合二通りの解釈が可能と思います。「悟りの境地」からそう断言できる。それがひとつ。それともうひとつは、観念的思考を極限までしてみて、その限界を知りつくしてる場合です。「真理を知るにはもう瞑想しかないのだ」と。私もたまにそう思ってしまうのですが、「それはあなたの妄想だよ」とか「瞑想すれば真理がわかるさ」という主張に対して「じゃあ、そういうあなたは悟っているのですか?真理を知ってるのか?」という反論は、そこに論理の飛躍があるということです。おかと違い。最初のコメントの最後で言いたかったことは、つまりそのようなことです。有難うございました。
PUN
2009年11月02日 09:10
ワンギーサさん、昨日はお疲れ様でした。カティナ衣大法要を終えて、ゴータミー精舎に帰ってきたときに、私はセヤドーの瞑想会を受けていたので、挨拶させていただくことができました。生きとし生けるものが幸せでありますように。
あっきん
2009年11月02日 13:28
中間だけカティナ衣大法要に参加しました。
夜~翌日の朝6時位のお経は、一見長そうですが早かったです。その間、あまりお喋りもせず、後半になるほど迫力があり、妄想している場合でないのです。
帰り一人電車の中で参加できるのも今だけかもしれないと思いました。病気だったり用事ができたら不可能です。中間だけでも行ってよかったです。
終点になり眠りこけていた私に、「つきましたよ」と親切に声をかけてくれた人がいました。助けあうとはこんな事ではないかと思いました。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
身の丈修行者
2015年07月09日 06:33
本文の「現在にあるのは、現在の時間ではなく、現在なのです・・時間は過去にも未来にも現在にも実在しないということです」心に響きます。
また「時間がないとき、何かが存在できるでしょうか?仏教は認識によって存在していると考えます。つまり、認識と認識の対象によって存在するのです」もインパクトを感じます。
時間に縛られているような実生活で、実はそれは自分の認識の世界という事に気がつけている方は少ないと思います。
「認識がない・・心がない・・阿羅漢の境地」を目指したいです。

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