15. この世で苦しみ、あの世で苦しみ、悪いことをした人は二つの世で苦しむ

ダンマパダ 第1章 ひと組 15~18

この世で悲しみ、あの世で悲しみ、
悪いことをした人は二つの世で悲しむ
自分の汚れた行為を見て、
彼は悲しみ、彼は苦しむ(15)

この世で喜び、あの世で喜び、
善いことをした人は二つの世で喜ぶ
自分の清らかな行為を見て、
彼は喜び、彼は歓喜する(16)



この世で苦しむ、あの世で苦しむ、
悪いことをした人は二つの世で苦しむ
「私は悪いこととした」と苦しむ、
悪い所に行ってより多く苦しむ(17)

この世で喜び、あの世で喜び、
善いことをした人は二つの世で喜ぶ
「私は善いことをした」と喜ぶ、
善い所に行ってより多く喜ぶ(18)



〇超訳の試み

悪いことは何ですか?
それをすると、今苦しみ、後でも苦しむ
「私は悪いことをした」と悩む
死後には更に多く苦しむ

善いことは何ですか?
それをすると、今喜べ、後でも喜べる
「私は善いことをした」と喜べる
死後には更に多く満足できる


〇子供のためのダンマパダ

悪いことってなーに?
いきものを殺すこと
人のものをとること
うそをつくこと

善いことってなーに?
やさしくすること
みんなで分けあうこと
うそを言わないこと


〇一口メモ

 釈尊の時代にもそうでしたが、現代でも悪いことをする人、犯罪者は絶えないのです。もし彼らが今回の詩を知っていたら、平気で悪いことはできないはずです。しかし、もし知っていても、理解しようとはしないのでしょう。この詩は「行為にはその結果が必ずある」ことを教えるものです。その行為も心から始まるのです。悪い心、汚れた心でなされた行為は、悪い行為なのです。悪い行為には悪い結果ついてきます。悪い結果とは、苦しむこと、悲しむこと、不幸なことなのです。しかも、この詩では死んだ後にもその結果は現れると教えているのです。

 逆に善い心、清浄な心でなされた行為は、善い行為なのです。善い行為には善い結果がついてきます。善い結果とは、喜べること、満足できること、幸福なことなのです。しかも、善い結果は死後にも現れると述べられています。

 何が悪い行為か、何が善い行為か、行為の結果を調べれば分かるはずですが、私達は善いこともしますが、悪いこともしてきました。そのため、行為と結果の関係が単純にはわからなくなっています。釈尊は、卓越した智慧で善い行為を五戒にまとめ、更に具体的に、十悪行、十善行として教えておられます。(これらの言葉の内容はブログ内検索で調べて下さい。)

 子供は経験が少ないので、何が悪いことで、何が善いことか具体的に教えた方がよいと思います。大人はその理由を聞かれたとき、説明できるようにしたいものです。

 この詩の難しいところは、行為の結果は死後にも現れると述べられているところです。死後のことは証拠がないので分かりません。そこで、日本テーラワーダ仏教協会の機関紙であるパティパダー12月号と共に会員の皆様に送る「喜びが絶えない生き方」(スマナサーラ長老著、山形県 頼明寺 副住職 花澤譲爾様方による施本)の中から、死後のことについて書かれた部分を引用させて頂きます。

 (引用はじめ)「それから『死んだ後、天国へ行くか、地獄に堕ちるか』ということも、結局、知れたものではないのです。天国も地獄も、あるかどうか判らない。そんな知られようもない、自分にとって証拠を出せないことは、結局わからないのです。仏教は輪廻転生を語っていますが、ちょっと難しい話で簡単には言えないのです。どうしても理解したければ、指導を受けながら瞑想すれば人によっては輪廻のシステムが理解できるし、そのための智慧が得られます。瞑想すれば、輪廻する可能性ぐらいははっきりしますが、瞑想する誰もが輪廻をわかっているかというとそうでもない。とにかくわからないものはわからないのであって、それは措いておけばいい。知らないことに振り回される人生は、いかがなものかと思います。

 では、仮に死後の世界はあることにしましょう。もし、人が今世で、殺生したり、嘘をついたり、よこしまな行為をしたり、それから、うわさ話をしたり、悪口を言ったり、怒りとか強欲とか、そういう邪見で生活するとその人はどうなりますか? まずこの世の中で、どろぼうだ、嘘つきだと非難をうけます。この世の中で不幸になるのです。・・・・・(中略)・・・・・死後はあってもなくてもどうでもいいのです。悪いことをしたら、自分がどん底の不幸になる。自分ひとりだったらいいですが、家族はどうしますか? 家族にしても学校に行っている子供たちにしても、親がそんなことやったら、それからどうやって学校に通えるでしょうか。『うちのオヤジは・・・・・』と言えなくなってしまうでしょう。だから、ちょっと悪いことをしたら、この世で不幸に陥るのです。もし、死後があったらどうなるでしょうか? 決まっている話です。『汝は大泥棒をしたから、天国の一番トップグレードの所に入れてあげよう』なんて、ありえない。死後があったら、死後も不幸になるのです。」(引用終わり)

 一口メモが一口でなくなってすみません。


〇スマナサーラ長老のこの詩の関する説法

 「思考についての考察」 ~悩む人間、悩みのない人間~
 http://www.j-theravada.net/howa/howa8.html


〇前回の「この詩から学ぶこと」

 悪いことしたらこの世で苦しみ死後の世界でさらに苦しむ
 http://76263383.at.webry.info/200901/article_8.html


〇パーリ語原文

15.
イダ    ソーチャティ ペッチャ ソーチャティ パーパカーリー ウバヤッタ ソーチャティ
Idha     socati     pecca    socati,     pāpakārī      ubhayattha  socati;
この世で 悲しむ    死後に   悲しむ   悪をなした人は  両所で   悲しむ 
ソー ソーチャティ ソー ウィハンニャティ ディスワー カンマキリッタマッタノー
So   socati      so   vihaññati,     disvā     kammakiliṭṭhamattano.
彼は 悲しむ    彼は 悩まされる    見て     行為 汚れた 自分の
16.
イダ    モーダティ ペッチャ モーダティ カタプンニョー  ウバヤッタ モーダティ
Idha     modati    pecca    modati,   katapuñño     ubhayattha  modati;
この世で  喜ぶ    死後に   喜ぶ  福徳を積んだ人は 両所で   喜ぶ
ソー モーダティ ソー パモーダティ  ディスワー カンマウィスッディマッタノー
So   modati    so   pamodati,    disvā     kammavisuddhimattano.
彼は 喜ぶ    彼は 満足する    見て     行為 清浄な 自分の
17.
イダ    タッパティ ペッチャ タッパティ パーパカーリ  ウバヤッタ タッパティ
Idha     tappati    pecca   tappati,   pāpakārī      ubhayattha  tappati;
この世で  苦しむ  死後に  満足する 悪をなした人は 両所で    苦しむ
 パーパン メー カタンティ タッパティ ビッヨー タパッティ ドゥッガティン ガトー
‘‘Pāpaṃ   me  kata’’nti   tappati,   bhiyyo   tappati    duggatiṃ    gato.
 悪を 私によってなされたと 苦しむ  より多く  苦しむ    悪趣に   行って

18.
イダ   ナンダティ ペッチャ ナンダティ カタプンニョー ウバヤッタ  ナンダティ
Idha    nandati   pecca    nandati,   katapuñño     ubhayattha  nandati;
この世で 喜ぶ   死後に   喜ぶ   福徳を積んだ人は 両所で   喜ぶ
 プンニャン メー カタンティ  ナンダティ ビッヨー ナンダティ スッガティン ガトー
‘‘Puññaṃ   me   kata’’nti    nandati,   bhiyyo   nandati    suggatiṃ   gato.
  福徳を 私によってなされたと 喜ぶ    より多く  喜ぶ     善趣に   行って


〇今回の詩のパーリ語について、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに「ダンマパダ輪読会 文法事項のまとめ( 記録文責;柴田尚武 先生 )」がありますので是非御参照下さい。
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp15-23.pdf


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~



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この記事へのコメント

才木広之
2009年11月11日 22:16
いきもの、すべてのこころが、あかるくありますように
2009年11月12日 05:20
ワンギーサさん、おはようございます。なるほどです!仏教者ではありませんが、「来丗があるかどうか分からないが、来丗があると仮定して生きても、実際損することは何もない」という考えに出会したとき、「確かにそれもそうだな~」思わず共感したことがあります。ところで、ひとつ経験的に言えるのは「心」はとても癖がつきやすい。ということです。「怒り」を発し続けるとそれが癖になり「怒りっぼくなる」。「性的妄想」を趣味にしたりするとそれもまた癖になる。逆も真なりです。「怒りやすく、性的妄想の世界に浸っていてはそれは不幸だ」くらいは簡単に実感できます。でも癖になってしまったらなかなか大変で、それが「悪果」のひとつではないかと感じてます。「善行為」を癖にすれば問題ありません。そして、「何故?悪いという理由」の方も実際にやってみて意外な発見することが多いし、それ以上に実行にまさる説得力ないと思います。「善は急げ!継続せよ!」有難うございました。
まさこ
2010年07月18日 06:37

おはようございます。

私も、残念ながら、悪い癖がついてしまいました。
「善は急げ!継続せよ!」頑張ります。
身の丈修行者
2015年07月12日 12:22
今世も死後も困る事にならないような生き方をして参りたいです。
こちらで学ばせて頂いて、そして心の感じている事の冥想実践をしていけば、道は開けると感じています。
精進していきたいです。

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