62.自己さえ自己のものではない

ダンマパダ 第5章 愚か者 62

「私に子あり、私に財あり」
愚かな者はこのように悩む
自己さえ自己でないものを
どうして子がある、財がある


(片山一良先生 訳)


〇超訳の試み

子供が心配、株価が下がったと
愚かな者は悩むけど
明日に自分の命があるのかな
何が子供か、何が財産か


〇子供のためのダンマパダ

君に悩みがあるのかな
別になければいいのだが
あっても悩むことはない
何でもすぐに変わるから





〇一口メモ

 今回の詩は悩みについてです。私たちにはいろいろな悩みがあります。子供のころを振り返るとどんなことに悩んでいたのだろう。子供のころは、痛いとか、怖いとか、お腹がすいたなどが悩みだったかな。少し大きくなって、死ぬのがかわいそうだとか、死ぬのが怖いなどの悩みもありました。でも、子供たちを見ていると、どんな時でも、大人たちの心配をよそに、兄弟や友達と何か遊んでいて楽しんでいて深刻にはならないのですね。しかし、アフリカの飢餓に苦しむ子供たちの情報には胸が痛みます。

 だんだん、大人になるにつれて、悩みは増えているのでしょうか、悩みは大きくなるのでしょうか。悩む大人には完全に明るさはありません。状況は大人にも、子供にも同じではないかと思うのですが。大人になるにつれて、つまり自我が発達するということですが、そうすると悩みを生み出す問題についての妄想が増えるのです。妄想が増えると、悩みは増え大きくなるのです。

 例えば、子供が病気したら、悩むのではなく病院に連れて行けばよいのです。お金がへれば、悩むのではなく、働けばいいのです。職を失えば、悩むのではなく、職を探せばいいのです。ですが、なかなかこれができません。釈尊は、その理由を執着があるからだと仰ります。子供に執着してるから、治らなかったらどうしよう。財産に執着しているから、失った財産について悩むのです。それらの、執着を捨てれば、今必要な智慧が生まれてくるのです。執着を捨てろと言われても捨てられません。そこで、釈尊の決め言葉は「自分自身でさえ自分のものでないのだ。」「明日命があるとはかぎらない。」ということです。執着しても無意味なのです。


〇この詩に関するスマナサーラ長老の説法

「悩み、苦しみ」を諦められるか
http://www.j-theravada.net/howa/howa21.html


〇前回の「この詩から学ぶこと」

愚か者子や財産で苦悩する自分自身も無我であるのに
http://76263383.at.webry.info/200902/article_11.html


〇パーリ(語)原文

62.
プッター マッティ  ダナンマッティ
Puttā    matthi   dhanammatthi,
子   私の ある  財産 私の ある 
イティ バーロー ウィハンニャティ
iti    bālo     vihaññati;
と   愚か者は  悩まされる
アッター ヒ  アッタノー ナッティ
Attā    hi   attano    natthi,
自己は さえ 自己の   ない
クトー プッター クトー ダナン
kuto   puttā   kuto   dhanaṃ.
どうして 子か どうして  財産か


〇今回の詩のパーリ語について、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに「ダンマパダ輪読会 文法事項のまとめ( 記録文責;柴田尚武 先生 )」がありますので是非御参照下さい。
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp54-63.pdf


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~



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この記事へのコメント

たま
2009年12月15日 21:53
私は今まで、少しでも批判されると、自分の良さをアピールして、自分を正当化することに苦心していました。(十分治ってるか怪しいとこです。)

批判されたときに(大抵自分が自分を評価するより他人の指摘が大体は正しいもんですね、たぶん)、「自分はバカだった~わっはっは」と笑い飛ばして人にも言えたとき、とても充実感を感じたというか、軽くなりました。
悪いも善いも関係なく、自分を見るには勇気がいりますね。何をがんばっても、自分を見ることだけはがんばりたくないというかがんばって避けたいというか・・・今までそんな感じだったなあ、なんて頑固だったかと、思いました。何て無駄なことに努力してたのかと。
がんばって目をつむって、腐った自分を宝物の形にして見せようとがんばってたわけですから、所詮無理なことで、へとへとに疲れました。腐ったものなんか、「はっは~腐ってた」って言ってすぐに捨ててしまえば楽だったんですね。
腐った自分を大事に大事にフタをして、手放さないようにしてたんだなあと、今日の詩を見て改めて思いました。
毎日見て勉強させてもらってます。ありがとうございます。
2009年12月16日 02:58
ワンギーサさん、おはようございます。何かをするまえにあれこれ悩む場合もありますが、一方で決断して実行してる場合でさえ、「これでいいのだろうか?」と悩むことがあります。考えなければ良いのでしょう。考えないことで、本来の問題点が明確になります。それを解決したら、またそれについて色々考えずに実行すればよいように思います。現在、「八戒」を継続中ですが、「やはり、一日三食の方が常識的ではないか?異性に興味を持つのは人間として当然な姿ではあるまいか?」などと余計な妄想すると、精神的にとてもキツクなります。自分が決めたことは、やればいいだけです。それにはウ゛ィッパサナー実践で妄想を断つ努力をすることです。詩の最後が「無我」の境地で終わっているのも「しっかり冥想しなさい」というお釈迦様の叱咤激励のように感じます。有難うございました。
1951男
2009年12月16日 11:46
前回の「この詩から学ぶこと」では、「自分には自分すらない」という解説をなさっていましたが、今回はそういった話を避けて、「自分すら自分のものではないのに」という理解で解説を進めていただけたのでほっとしています。

『実に自分は自分のものではない。
どうして子供たちが財産が自分のものであろうか。』
「attaa hi attano natthi」は「ダンマパダ輪読会 文法事項のまとめ( 記録文責;柴田尚武 先生 )」のように理解する方が文脈に即しています。
もくぎょ
2009年12月16日 21:08
皆様今晩は。作ってみました。
ナイトシアター「ダンマパダ、八甲田山編」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明治35年1月雪の八甲田。あてどもない雪中行軍が続く。田代までの2キロ、そのわずか2キロの道筋が見つからない・・・コンパスは既に使えなくなっていた。

従卒「もくぎょ小隊長、このままでは我が隊は、ぜっ全滅です!」

もく「て、てん・・は・・天は我々をみ・は・な・したーー・・ッ!!」

吹雪の上空を絶望し見上げる木魚・・・その目には涙が。

その時であった。
??「・・も・・く・ぎょ・・さん・・」

もく「・・おっおお。か、神が、神様が答えてくれた。我を、我をお助けくださいっ!」

老 「・・違いますよ・・・森羅万象全てが無常のこの世界。永遠の神様に頼ってはいけません。ここはあなたの知恵で乗り切るのです・・・」

もく「ろっ・・老師様~~・・・・!」

そのとき木魚に閃くものがあった。ブナの大木の日陰側に生える苔。それが北側に当たることを思い出したのである。こうして方角を手探りで決め、木魚以下わずか数名が田代に辿り着いたのである。しかしこれは、時の明治政府、軍部が極秘事項とし、長く外部に伝えられる事はなかった。

※もちろんフィクションです(^^;;
参考資料「八甲田山死の彷徨」新田次郎著より
木魚劇場観客
2009年12月16日 21:50
パチ、パチ、パチ、パチ、パチ・・・
 
まさこ
2010年08月22日 06:58

明日があるかわからないから、今日1にちだけ頑張る。すぐに、怠けてしまうので、そんな気持ちで頑張ります。
こころざし
2015年07月24日 08:18
自分のものにしたいとか、自分のものなのに・・等と考える事はしばしばあります。また、自分のものでなければ何かアクシデントがあっても他人事で、関心を持ちません。自分のものなんてない、と思いますと凄く気が楽になります。執着の恐ろしさを感じます。
本文の、「自分自身でさえ自分のものでないのだ。」「明日命があるとはかぎらない。」の言葉を思いますと、執着に繋がりにくい印象を感じています。
執着を減らせるように努めたいです。
たか坊
2016年07月24日 22:40
今回も
明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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