64.65.愚かな者は真理を教えてもらっても理解できない

ダンマパダ 第5章 愚か者 64、65

愚者はたとえ生涯を
賢い者に仕えても
法を了知することがない
匙(さじ)がスープの味を知らぬように

知者はたとえ一瞬でも
賢い者に仕えても
ただちに法を了知する
舌がスープの味を知るように


(片山一良先生 訳)

〇超訳の試み

無知の自覚のない人は
真理を教えてもらっても
教えられたことが頭に入らない
満たされたコップに水を注ぐように

無知の自覚のある人は
真理を教えてもらえば
教えられたことが頭に入る
空のコップに水を注ぐように


〇子供のためのダンマパダ

不注意な子は
先生の話が分からない
聞いてないのだから
しょうがないね

注意深い子は
先生の話がよく分かる
よく聞いているのだから
とうぜんですね





〇一口メモ

 真理を知らない凡夫が本当に愚か者かどうかは、前の63番の詩で述べたように、無知の自覚があるかどうかであります。無知の自覚のない人は知る能力が麻痺しているのです。ですから、賢者、悟った人に真理を教えてもらっても、受け取れない、理解できないのです。その状態はまさに、この詩の例のように、匙はスープの味は分からないのです。また、超訳の例で言えば、汚れた水で満たされたコップのように、きれいな水を注いでも溢れるだけなのです。無知の自覚のない愚か者の頭の中は、間違った固定概念や妄想でいっぱいで、ありのままの正しい情報は頭のなかに入らないのです。一方、無知の自覚のある凡夫は、舌がスープの味が分かるように、真理が分かります。余計な固定概念を捨て、妄想をなくした頭には、真理はすぐに入って行くのです。

 「子供のためのダンマパダ」では、注意力に着目しました。子供は大人と違って、自分は知らないことが多いことを大人より自覚しています。ですから、子供は何でも知りたがります。子供の頭は固定概念や妄想は少ないのです。しかし、子供の場合は何でも知りたがりますから、注意が分散してしまいます。ですから理解できなくなります。学校の例は、子供はよそ見をして、先生の話を聞いていないのです。先生は子供の注意を集中させるような面白い話をする必要があるのですが、子供は先生の話をよく聞くようにしなければいけません。

 この詩における、匙と舌の例は、八正道の正念のある人と正念のない人の違いですが、その前提に、無知の自覚があるかどうかが重要だと考えた次第です。
 

〇前回の「この詩から学ぶこと」

覚者から何も学べぬ愚か者スープの味が分からぬ匙だ
http://76263383.at.webry.info/200902/article_13.html


〇パーリ(語)原文

64.
ヤーワジーワンピ チェー バーロー
Yāvajīvampi     ce     bālo,
生命ある限り    もし   愚者は
パンディタン パイルパーサティ
paṇḍitaṃ    payirupāsati;
賢者に     奉事する
ナ   ソー ダンマン  ウィジャーナーティ
Na   so   dhammaṃ   vijānāti,
ない 彼は  法を      知ら
ダッビー スーパラサン ヤター
dabbī    sūparasaṃ   yathā.
匙    スープの味を  如く

65.
ムフッタマピ  チェー ウィンニュー
Muhuttamapi   ce    viññū,
一瞬でも     もし  知者が
パンディタン パイルパーサティ
paṇḍitaṃ    payirupāsati;
賢者に     奉事する
キッパン  ダンマン  ウィジャーナーティ
Khippaṃ  dhammaṃ   vijānāti,
すぐに   法を      知る
ジウハー スーパラサン ヤター
jivhā     sūparasaṃ   yathā.
舌は    スープの味   如く

〇今回の詩のパーリ語について、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに「ダンマパダ輪読会 文法事項のまとめ( 記録文責;柴田尚武 先生 )」がありますので是非御参照下さい。
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp64-75.pdf


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~



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この記事へのコメント

ワタナベ
2009年12月17日 23:10
こんばんは。いつもありがとうございます。
僕がいつもお経の言葉で感心しますのは、その絶妙なわかりやすい「喩え」がセットで付いているところです。
誰もが瞬時に理解できるように、語られているところに
仏陀の「無上の調御丈夫」(人々を指導することにおいては無上の能力を持つ方)の徳を感じます。
たま
2009年12月18日 00:08
同じ法話に触れるのでも、
その時によって感じること、納得できることが違いますね。
その時々のコップの容量によるのかなと感じます。

以前読んだときには気づかなかったけどこんなすごいこと書いてあったのかーと、急にすぅーっと内容が入ってくるときがあります。
きっと、そんなときでも、コップには元々の水(無知)がいっぱい入ってるから、注いだ水はたくさん溢れてしまっているのかなーとも思いました。悟るときは本当にコップが空っぽ状態になったときなのかなあと。
で、元々のコップの水を減らすには、やっぱりヴィパッサナー実践するしかないってことなのかな、と思いました。
2009年12月18日 04:14
ワンギーサさん、おはようございます。パティパダの12月号の「智慧の扉」に、関連した内容が書かれてるように思います。最後の方を抜粋させて頂きたいと思います。~「他人の話を聞いても、自分を束縛する妄想のフィルターを通してしか聞くことしかできない。事実を直視するならば、私たちには「思考の自由」などないのです。だから、仏教を学ぶ人は「自分の思考」も信用しません。私たちが心の自由、一切の束縛からの解放を目指すために不可欠の訓練とは、ブッダの冥想法なのです。」~。「自分の思考」も信用しない。…とても強烈なのでノートに書いておきました。有難うございました。
PUN
2009年12月18日 05:05
おはようございます。ラジオ深夜便、聞かせていただきました。スマナサーラ長老の話、目がさめました。仏法僧に感謝します。
あっきん
2009年12月18日 06:30
真理が分からない=自分が分からない
私は正しい、偉い、できるとか思っている事が間違い。いずれその結果が戻ってくるとは、不幸。
真実は無我と知れば、解釈もまた変わってきます。
仏法僧に帰依致します。
生きとし生けるものは幸せでありますように。
まさこ
2010年08月24日 07:33

私も、スプーンかもしれません。
こころざし
2015年07月24日 08:34
身近に、楽しくない事・難しい話は興味がないと言って無関心な方がいます。それでいて、困った時・問題を抱えた時には安易に人に頼り、解決法のみを知ろうとする印象を感じる時があります。
本文の「無知の自覚のない人は知る能力が麻痺している・・」が当てはまるように思います。
無知の自覚を持って、謙虚に学ばせて頂きたいです。
たか坊
2016年07月29日 09:05
今回も
明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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