73.74.愚者は虚栄を求めてしまう

ダンマパダ 第5章 73,74

阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


愚者は虚栄を求めてしまう
諸比丘においては尊敬を
諸寺においては権力を
他者の家においては供養を

「『私のみのすることだ』と
在家も出家もともに知れ
大小いかなる仕事でも
私のみの意向に従え」
かかる思いが愚者にあり
そして欲と慢が増す


(片山一良先生 訳)


〇超訳の試み

愚かな比丘は
比丘たちの中では尊敬を
寺の中では権力を
在家には布施を求めてしまう

「私が一番偉いのだ」と
在家にも出家にも
どんなことでも
私の意向に従えと
このように思う愚かな比丘は
欲望と慢心が増える


〇子供ためのダンマパダ

自分が一番えらいのだと
自分の言うことを聞けと
威張っている子は
先の見えない愚か者
皆に嫌われ
友だちがいなくなるよ





〇一口メモ

 人に尊敬を求めれば、尊敬を得られると思う人は本当の大馬鹿者です。そのような人をだれも尊敬しません。ですから、尊敬を欲しいと思う人はもう少し考えた手を使うものです。自分は尊敬など欲しくないようなそぶりをします。それでも、人はその人の本心を見抜くものです。とは言え、だまされる人も多いのかもしれません。

 尊敬までは求めなくとも、誰でも自分を認められたいという思いを持っています。ほとんどの人がこの思いを持っていると思います。私にもあります。このブログを書いているのは、仏教の布教という大義名分はありますが、自分を認めてもらいたいという気持ちがあるのです。多くの人々は認めてもらいたい、認めてもらいたいと思って生きているのです。その理由は「前回の『この詩から学ぶこと』」に書きました。

 尊敬と権力を願う愚か者でも自分の幸福を願っているのでしょう。しかし、その願い方が法則に反しているから愚か者というのです。本当に自分の幸福を願うのであれば法則に沿って願う必要があるのです。何度の述べていますが、①自分が幸せになるように、②相手が幸せになるように、③皆が幸せになるように、この三つのことを考えて行動しなければならないのです。この三つがそろうと必ず幸せになります。そのためには智慧を出さなければなりません。一人だけでは出てこなければ、何人かで考えるのです。皆で幸せになる方法を考えると楽しくなります。頭もよくなり、心も成長します。そして善い智慧も出てきます。


〇前回の「この詩から学ぶこと」

尊敬と権力願う愚か者 実のない修行と供養を願う
http://76263383.at.webry.info/200902/article_20.html


〇パーリ(語)原文

73.
アサンタン バーワナミッチェッヤ
Asantaṃ   bhāvanamiccheyya,
不実の   修行を 求める
プレッカーランチャ ビックス
purekkhārañca     bhikkhusu;
尊敬を   又    比丘たちにおいて
アーワーセース チャ イッサリヤン
Āvāsesu       ca   issariyaṃ,
住居においては 又   主権を
プージャー パラクレース チャ
pūjā      parakulesu   ca.
供養を   他の家では  又

74.
マメーワ  カタ  マンニャントゥ
Mameva   kata   maññantu,
私 だけ  為した 思え
ギヒーパッバジター ウボー
gihīpabbajitā      ubho;
在家も 出家も   両者は

マメーワーティワサー アッス
Mamevātivasā      assu,
私だけに 強権が   ある
キッチャーキッチェース キスミチ
kiccākiccesu         kismici;
種々の所作で       何事でも
イティ バーラッサ サンカッポー
Iti    bālassa    saṅkappo,
と   愚者の    思惟は
イッチャー  マーノー チャ ワッダティ
icchā      māno    ca  vaḍḍhati.
欲求     慢心は   又 増大する

〇今回の詩のパーリ語について、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに「ダンマパダ輪読会 文法事項のまとめ( 記録文責;柴田尚武 先生 )」がありますので是非御参照下さい。
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp64-75.pdf


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~



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この記事へのコメント

CyberBaba
2009年12月24日 22:09
認めて欲しいという気持ちがあるのは当然で、
またそれはある程度は尊重されるべきだと思います。

そうでなければ他人に対する慈悲の気持ちは成立しません。
慈悲とは言い換えれば他人を認めてあげることです。

これがただの煩悩に過ぎないなら、
慈悲をかけるのはただのおせっかいに過ぎなくなります。

他人を認めるように自分も認める、
他人が認められたいように自分も認められたい、
こういうことは大切だと思います。

ただし、ダンマパダのこの句は僧侶への戒めですね。
こう言っては大変失礼ですが、
多くの僧侶を見てきましたが、
多くの僧侶は高慢の心が強いです。
隠そうとしても隠し切れません。
仏教が一番だ、私はその仏教をやっているという態度が見え見えです。

そのために仏教を見限る人も多いことを、
僧侶の方々にはよくよく理解していただきたいと思います。
ワタナベ
2009年12月24日 23:14
僕はこの詩偈を読ませて頂いた時、10代の頃はまさに「人に尊敬される目的のために」勉強していた事を思い出しました。だから凄く内心は苦しかったです。とにかく僕の10代、20代の頃は「人生の目的」と言った価値観などは、全くわからず、ただ闇雲に惰性で生きていただけでしたので疲れるだけでした。30代になって上座仏教に出会ってから、「人生にそれほど意味はなく、ただその場でその場で自分の眼耳鼻舌身意の刺激を求めているだけ」「金持ちになろうが、何かをなそうが、いづれ自分の身体はボロボロになって死んでいくだけ」というふうに客観的に自分を、人間を捉える事が出来てからは実に『気楽』に生きることが出来ました。
【本当の心の安楽は自分で自分を客観的に観察して、すべては変化して滅んでいく。今ある幸福は一時的現象で、この幸福はこの瞬間、次の瞬間に滅んでいくものであると感じる事】のように思います。
自分が今までこだわって来た、執着してきたものが「無意味」だとわかった時、その『自動的に起こる手放し』状態こそが本当の心の安寧に繋がるものであるとこの歳になって感じる次第です(^^;。m( )m
あっきん
2009年12月25日 00:13
サンタさんにクリスマスプレゼントを期待するより、自分ができる範囲の事を人に与える。そんな点を仏教で学びました。デパートの地下では盛り上がって食品があふれていましたが、反対に食欲が無くなってしまったのです。迷惑なのは鶏さんかも
生きとし生けるものが幸せでありますように。
2009年12月25日 05:41
ワンギーサさん、おはようございます。確か、サンガシステムでは「全員一致」を原則として意思決定をする。そうであるなら、大変素晴らしいことです。「多数決」だと多数派に従わなければならない。数の暴力。「話し合い、意見交換」が十分なされば良いのですが、現状は難しい。どこかのブログで「意見交換、自由討論」を企画したら、最後は「賛成、反対」両陣営が罵り合いになってしまい、企画を中止したことがあったそうです。様々なブログも大同小異のようです。ネット社会に限った話ではありませんね。ですから、まずは「意見に対する執着」をなくす努力と考えてます。ゴータミーの法友(5、6人)と、ディベートをしたことがあります。まず素直に思ったことを表明する。意見がわかれたら、立場を交換して議論する。秋葉原の事件がテーマになったことがあり「ナイフを規制すべき」私は反対でしたが、賛成の立場で意見を言いました。相手の意見は元々自分が正しいと思ってた意見だから、勝ち負けになることが抑制される。意見などどのようにも変えられると実感できる。有効な方法のひとつでした。トレーニングの必要性を感じてます。有難うございました。
トム
2009年12月25日 07:50
 なるほど、願い方が法に反しているから愚か者というのですね。そして法に則すために、①私②あなた③生きとし生けるものを考えて行動することがポイントですね。

 最近、いい
バーバ
2009年12月25日 11:07
ワンギーサ様 毎日有難うございます。
2歳になる孫が将来お釈迦様の説かれた道を自然に歩めるようにするには、どうしたらよいのかしらん?と折に触れて、問うていますが、子供のためのダンマパダが、とっても助かります。
まさか、子供に、生きることは苦ですよ、すべて無常ですよ、とは言えませんから(笑)
こんにちは
2009年12月25日 12:40
とめどなく流れる、この思い、次から次へと流れていくこの思い

どこから来てどこへ去っていくのだろう

人々の、記憶に残り、あるいは自分の心に残り

さまざまに影響を与えていくこころ

真剣真面目に、此のこころをおろそかにしないよう

精進いたします

  生きとし生けるものが幸せでありますように
ワンギーサ
2009年12月25日 22:36
 皆さん、コメントありがとうございます。
CyberBabaさんへ。
 「認めてもらいたい」という気持ちは誰にでもあります。それを否定している訳ではありません。すべての生命は他の生命とつながりがなければ生きていけません。生命ネットワークの中で生きています。しかし、精神の自立が必要なのではないでしょうか。他に認められなければ生きていけないというのは情けないとは思いませんか。実際の人間関係では、人はいろいろなことを言うものです。ですが、自分の精神が自立していれば他人から否定されてもめげません。慈悲の心は依存させるものではなく、自立を援助するものだと思います。
 僧侶の高慢の問題はその通りです。僧侶に限らず、高慢は克服は困難ですが、仰る通りよくよく理解して、その克服に精進する所存です。
CyberBaba
2009年12月25日 23:16
ワンギーサさん
コメントありがとうございます。
「認めてもらいたい」という気持ちをもう少し追求してみました。認めてもらいたいのはあるがままの自分ではないでしょうか?それに対し虚栄というのは、文字通り虚なる自分で、あるがままではない自分ではないでしょうか?そんなことを考えました。
チヨ
2009年12月27日 19:09
ワンギーサさん、CyberBabaさん、ためになるお話ありがとうございました。
こころざし
2015年07月27日 06:29
自分を認めてほしい、という思いは日常的に自分にあると思います。また、職場で争いが起きた時に、双方が自分の辞表を盾に「相手を辞めさせるか自分がやめるか・・」と上司に迫るシーンに遭遇した事もあります。
コメントにありますように、精神的に自立し相手に認められなくても動揺しないような心の成長を目指したいです。
たか坊
2016年08月07日 18:57
今回も
明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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