46.身体は泡のようなもの蜃気楼のようなもの

ダンマパダ 第4章 花 46

この身体は泡のようだと知って
蜃気楼の性質あると正しく悟った人は
悪魔の花の矢を断ち切って
死王が見えない所に行くだろう



〇超訳の試み

身体はシャボン玉のように
生まれて消えて死ぬと知るならば
身体のための苦労を止めて
心の汚れを落とし涅槃に向かおう


〇子供のためのダンマパダ

身体はだんだん年取って
病気をして、死んでしまうよ
心は年を取らないのだから
心の汚れを落してやさしく大きくしよう





〇一口メモ

 私たちは幸福になりたいと思っています。通常はあまり自覚してないかもしれませんが、欲望が満たされれば幸福だと思っています。ですから、その欲望を満たすために、毎日苦労しているのです。その欲望はどのようなものでしょうか?アメリカの心理学者マズローの欲求段階説(フリー百科事典「ウィキペディア」参照)がありますが、基本的には、身体にある眼耳鼻舌身の感覚器官の感覚に対して心が求めるものなのです。

 しかし、その身体は泡のように、蜃気楼のように、シャボン玉のように、多少時間の長い短いはありますが、生まれて消えていくものなのです。その身体にこだわるにはあまりにも虚しいものなのです。そのことに気がついたら、理性ある人々は、真の幸福は何かを考えて、五欲に無自覚に従うことを止めるはずです。その時、出会える道はお釈迦さまが説かれる八正道です。

 「子供のためのダンマパダ」について。身体は年を取って、死んでしまうが、心は年を取らないと書きました。本当ですかと思う方もおられるでしょうが、心は年を取らないのです。年を取るのは肉体(物質)なのです。ですから、子供のようにわがままな老人もいれば、大人以上にしっかりした子供がいるのです。もう少し正確に言えば、心は瞬間、瞬間生まれ、死んでいるので、心はいつも生まれたてなのです。ただ前の心の影響を受けて、次の心が生まれますので、つながっているように思えるのです。心は意識して、育てないと生長しないのです。育てないといつまでも輪廻を繰り返しているだけなのです。

〇この詩に関するスマナサーラ長老の説法

「身体と幻」 ~執着から離れ平安な心を得る~
http://www.j-theravada.net/howa/howa15.html

〇前回の「この詩から学ぶこと」

この身体泡のようだと悟る人悪魔の花を断ち切るだろう
http://76263383.at.webry.info/200901/article_30.html

〇パーリ語原文

46.
ペーヌパマン カーヤミマン ウィディトゥワー
Pheṇūpamaṃ  kāyamimaṃ  viditvā,
泡の ような  身体 この   知って 
マリーチダンマン    アビサンブダーノー
marīcidhammaṃ     abhisambudhāno;
蜃気楼の性質がある  よく覚った者は
チェトゥワーナ マーラッサ パプッパカーニ
Chetvāna     mārassa    papupphakāni,
断って      悪魔の    花の矢を
アダッサナン マッチュラージャッサ ガッチェー
adassanaṃ    maccurājassa      gacche.
見えない所   死の王の       行くだろう


〇今回の詩のパーリ語について、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに「ダンマパダ輪読会 文法事項のまとめ( 記録文責;柴田尚武 先生 )」がありますので是非御参照下さい。
http://www.j-theravada.net/sakhi/Dhp44-53.pdf


~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものに悟りの光が現れますように~



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この記事へのコメント

2009年12月04日 03:28
ワンギーサさん、おはようございます。すると「健康で長生きする方法とは?」というテーマは「無駄話」になるのでしょうね。どうも皆さんそんな話題だと盛り上がり気味ですから、正反対の「事実」をモロに話すと単に嫌がられるだけです。これも無駄話ですね。もっとも最近、スマナサーラ長老の説法で「内容がいくら有意義であっても、相手が聞きたくない時はダメ。聞きたいのに分からなく話すのはダメ。」と教わりましたから、そこで早速実践です。~以下再現します。「昨日、知り合いが随分歳をとって体が動けなくて気の毒だ」「でも皆、そうなりたいからこそ働いているんでしょ?(かなりブラックですが、それが言える間柄です)」「え!いやそうなりたくないな」「誰でも老いて身体がガタガタになるのは防げないよ」「でも90歳でピンシャンしてる人もいる」「それは例外じゃないかな?それに、そういう人もやがてガタガタになって死ぬことは避けられないんじゃないか」「うん、確かにそうだ」~自己評価ですが、唯一成功した例です。つまり、残りは「無駄話」だったと言えます。八正道の「正語」のためには仏教深く学ぶ必要がありますね。有難うございました。
PUN
2009年12月04日 07:42
おはようございます。今週の私のテーマは「stop!自殺」です。NHKがキャンペーンをしているからです。

4日(金)
日本の、これから(夜10:00) 

自殺をなくすためにどうすればいいか考える番組が放送されます。私自身も、いろいろな悩みを抱えていて、自殺から無縁ではないので、NHKの三宅民夫アナウンサーとぜひ、一緒に考えてみたいと思います。また、ここで番組の宣伝をすることを黙認してくださったワンギーサさんには、感謝したいと思います。協会の掲示板にも投稿したのですが、間に合わなかったようですから。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
ワタナベ
2009年12月04日 09:03
ワンギーサ師、皆様おはようございます。
papupphakāni(pa+puppha+ka)のところで
中村訳、正田訳、スマナサーラ長老訳の先生方の訳文では、「花の矢」と訳しておられますが、柴田先生の示しておられるパーリ原文そのものには「矢」にあたる単語そのものがないことが勉強になりました。意訳されているのでしょうか。。。。ありがとうございました。
ワンギーサ
2009年12月04日 14:42
皆さん、こんにちは。いつもコメントありがとうございます。

 PUNさんへ。自殺防止について私も関心があります。このブログのトップページのブログ紹介の最後に私のメールアドレスを記載したのは、自殺しようと思った人が最後に連絡できる所があれば、助かる手がかりになるかと思い書いたのです。これは自殺しようとした人の相談を何年もしているお坊さんの話を聞いたからです。ですが、私に相談メールしてくれる人は何人もおられるのですが、まだ自殺しようとした方からのメールはまだありません。NHKの自殺の番組は、最近私はテレビを見ませんので、見ていません。重要な情報があればお知らせ下さい。

ワタナベさんへ。雲井辞典には、papupphakaの訳語に、「花を前につけた、花の矢、華敷(漢)」と記載されています。ですから矢がなくとも、意訳というわけではないと思います。今後もパーリ語のチェックをお願いいらします。

 新さんへ。琴の弦を強すぎず、弱すぎず調整するように、がんばってください。
恩返し
2009年12月04日 15:00
 ワンギーサさま。

 今一度、ダンマパダ46「悪魔の花矢」の正体(スマナサーラ長老の説法。協会発行のDVD DD28)を見られては如何かと思います。

 私は、この時の説法の多くは、ワンギーサさまのためになされているように感じます。

 しかし、その時のスマナサーラ長老の慈しみのお気持ちが、まだワンギーサさまに入っておられないように思います。

 決して、現在、ワンギーサさまを弾劾しようという気持ちはありませんので、是非再確認して頂ければと思います。

 この書き込みは、ワンギーサさまが読まれた後、削除されて構いません。

 
ワンギーサ
2009年12月04日 15:40
恩返しさん、御忠告ありがとうございます。ご紹介のDVDを勉強しようと思います。恩返しさんへの私からの忠告は、ダンマパダ50番をよく勉強なさいますように。
恩返し
2009年12月04日 16:35
 ワンギーサさま。お返事ありがとうございます。

 「忠告」というのはちょっと誤解されて受け取られているように思います。DVDを見ていただければ多分分かっていただけるのではないかと思います。

 ブッダの教えを守る中核は、出家の方だと思います。

 スマナサーラ長老は、この説法のとき、ワンギーサ様の陥りがちな発想(思考)パターンを指摘されて、ブッダの教えをレベルダウンさせないように、慈悲をもって教えられているように思います。

 ご確認よろしくお願いいたします。
PUN
2009年12月04日 17:15
ワンギーサさん、
NHKの「生活ほっとモーニング」や「福祉ネットワーク」で、それぞれ三日間シリーズで自殺対策の国内外の取り組みを紹介していました。自殺対策先進国のフィンランドのことは国も注目しているそうです。1986年、自殺の実態調査の結果、自殺者の90パーセントがうつなどの精神的な病気だったそうです。たとえば、働き盛りの中高年が死ぬと、経済的な損失が大きいこともあり、フィンランドでは本格的に自殺対策に乗り出したのです。中学生のうつに対しても対策をとっているところが、日本と天地雲泥の差があると個人的には思いました。中学時代、いじめなどで悩んでいたので、こういうオープンな形で安心して相談できる場が学校にあったらよかったと思います。ただフィンランドも苦労をしてそこまで行ったらしいです。国は「自殺対策100日プラン」をスタートさせ、そのリーダーが清水康之さん。「当事者本位」という言葉が印象的でした。先生の都合ではなく、患者の立場になって考える支援をしなければ解決はないということでしょう。「年越し派遣村」のリーダー湯浅さんとが内閣府参与という立場同士、「おれたち民間からきたやつらは厄介者扱いなんだ」と、愚痴をこぼしあっている場面もありました。湯浅さんはサンガ新書でも著書があるくらいですから、テーラワーダ仏教も注目している人だと思います。その湯浅さんの仕事仲間なのだから、国の自殺対策の民間からのリーダーである清水康之さんもおそらく、立派な方なんだろうと推測します。今週は、私にとっては、自殺対策のスタートダッシュだったので、無我夢中で走りました。その得た情報を、紹介するのは並大抵ではないですが、以上のようなことはポイントだったと思います。今日はフィンランドだけ紹介しましたが、イギリス、秋田県、静岡県など、まだまだ紹介したい自殺対策の取り組みは、ヨーロッパや日本の各地にありました。
PUN
2009年12月04日 17:35
イギリスか、フィンランドでは、精神的な病気が、がんや心臓病と同じく死に至る三大疾病であると、されているそうです。日本は、うつなどの問題に対して、軽く見ていた。さて、精神的な病気の背景には職がないことがある。私も職がなかったことがきっかけでうつになったので、外国の分析は正しいと思いました。経済成長のあとに、精神的な悩みに気づくというのは、王族に生まれながら、この世の苦に悩まれ、出家されたお釈迦様に通じるところがあるように思います。長くなりましたが、だいたいこんな感じです。今夜も、22時からNHKでは「日本の、これから」という番組で自殺をテーマに話すそうです。生きとし生けるものが幸せでありますように。
ときこ
2009年12月04日 21:48
ワンギーサ様
 一口メモに、「身体が求める欲望」とありますが、体そのものが欲望を求めるはずはなくて、体に依存して、体に感じる幸せの対象を追うのは心ではないでしょうか。感覚器官の感覚は、感じがあるだけで、求めると言う事はしないはずで、感覚を判断するのは心では無いでしょうか。心が動くから、体が動く。そこで、体に依存する事をやめるよう説く為、体は「泡のようだ」と例え、「蜃気楼の性質ある」という事を、心が知るようにと仰っているのではないでしょうか。心がそこを知るなら、感覚器官にひかれることなく、無色透明の生まれたままでいる事が出来るとの教えではないでしょうか(この疑問は、表現の違いで、ワンギーサ様と同じ意味でしょうか)
ワンギーサ
2009年12月04日 21:54
ときこさん。御指摘ありがとうございました。
ときこさんの言う通りです。私も表現がまずいかなと思っていました。今はまだ今日のブログを書いてませんので、あとで表現を訂正します。
ワタナベ
2009年12月04日 22:22
解説ありがとうございます。
今、papupphakaをPTSの辞書で調べてみましたら、「with flowers of front, flower-tipped(of the arrows of Maara)Dh46とありましたので矢arrowと言う意味がやっぱり含まれているんですね。古い水野辞書にはなかったものですから(^^;ありがとうございました。
ときこ
2009年12月05日 11:50
ワンギーサ様
 お返事有難うございました。早速のご訂正に、爽やかなご性格と、誠意ある姿勢を感じました。私の勘違いから疑問が生じたようで、むしろ安心致しました。合掌
ワンギーサ
2009年12月05日 20:17
恩返しさん、ご指摘のDVDを見ました。
ご指摘の通りです。私にはそこまで説明出来なかったのですが、今後は努力いたします。ありがとうございました。
恩返し
2009年12月06日 10:22
 ワンギーサさま。ワンギーサさまが、今ご自身でできうる精一杯の勇気を見せていただいたような気がします。

 ワンギーサさま。たとえば、眼で見ている花(主観)が、対象である花(客観)と一致するかどうかという問題を考えたことがありますでしょうか?哲学では、主観客観一致問題と言われたりしております。

 これについて、主観と客観が一致するとする見解、一致しないとする見解、客観は存在しないとする見解、客観は知りえないとする見解、主観と客観は区別がなく一体であるとする見解(禅者にもこういう見解をとる方がいらっしゃると思います)などがありますが、未だ、どんな哲学者、思想家、宗教家も解決はしておりません。

 この難問について、スマナサーラ長老があっさりとこのような趣旨のことをおっしゃったことがあります。

 「主観が滅すれば客観です。」

 私は、スマナサーラ長老が、ブッダの教え(客観的真理の教え)を現代までそのまま伝えられている一つの証左であると思っています。
恩返し
2009年12月06日 10:24
済みません。「スマナサーラ長老があっさりとこのような趣旨のことをおっしゃったことがあります。」と断定形で書いてしまいましたが、「スマナサーラ長老があっさりとこのような趣旨のことをおっしゃった記憶があります。」に訂正いたします。

 私の主観、バイアスが介在している可能性があるからです。
身の丈修行者
2015年07月20日 07:38
本文の「心は瞬間、瞬間生まれ、死んでいるので、心はいつも生まれたてなのです」心に響きます。
瞬間瞬間で生まれた心に気付いて、そして成長出来るように精進したいです。
コメントを拝見して、とても深い印象を感じました。このような貴重な場の機会を下さっているワンギーサ長老に改めて敬意を表します。心より感謝致します。
たか坊
2016年07月04日 18:33
今回も
明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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