108.正道の人を礼拝する方がすぐれている

ダンマパダ 第8 千の章 108

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマー サンブダッサ
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


この世で年中、功徳を求め
いかなる犠牲や供犠をしようと
直き者への礼拝がまさる
すべては四分の一にも及ぼす


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

功徳を望んで布施するならば
それが何であれ
より徳の高い人への布施は
より徳の低い人の百倍優っている


○子供のためのダンマパダ

子供でもお布施をするならば
第一はお釈迦さま
次は修行を完成したお坊様
犬や猫は最後だね





○一口メモ

 「中部経典第142 施分別経」というお経があります。それには釈尊の布施についての説法が述べられております。幸いなことに、八王子市にあるテーラワーダ仏教のお寺「正山時」にお住まいのスダンマ長老がご自分のブログ「法を守るものは法に守られる」の中で、このお経についての法話が掲載されております。今回の詩の理解に役にたちますので、是非お読み下さい。
アドレス:http://sudhammathero.blogspot.com/search?updated-min=2009-01-01T00%3A00%3A00%2B09%3A00&updated-max=2010-01-01T00%3A00%3A00%2B09%3A00&max-results=17

 その法話の今回の詩に直接関係のある部分を引用したしました。「超訳の試み」、「子供もためのダンマパダ」はこのお経を参考に作りました。

以下引用。

 「アーナンダよ、そのとおりです。この世の中にはpāṭipuggalikā dakkhiṇā.という個人へのお布施が14あります。

①Tathāgate arahante sammāsambuddhe dānaṃ deti  
  正自覚者へのお布施
②paccekabuddhe dānaṃ deti   
  独覚仏陀へのお布施
③Tathāgatasāvake arahante dānaṃ deti   
  佛弟子阿羅漢へのお布施
④Arahattaphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti   
  阿羅漢道へのお布施
⑤Anāgāmissa dānaṃ deti.  
  不還果へのお布施
⑥Anāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
  不還道へのお布施
⑦Sakadāgāmissa dānaṃ deti
  一来果へのお布施
⑧Sakadāgāmiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
   一来道へのお布施
⑨Sotāpanne dānaṃ deti
  預流果へのお布施
⑩Sotāpattiphalasacchikiriyāya paṭipanne dānaṃ deti
  預流道へのお布施
⑪Bāhirake kāmesu vītarāge dānaṃ deti
  愛欲のない修行者へのお布施
⑫Puthujjanasīlavante dānaṃ deti
  凡夫で戒律を守る人へのお布施
⑬Puthujjanadussīle dānaṃ deti
  凡夫で戒律を守らない人へのお布施
⑭Tiracchānagate dānaṃ deti
  畜生へのお布施

 「アーナンダよ、畜生にお布施して 受けとる功徳は100 (sataguṇā) の功徳があると思ってください。
 (これは、厳密な数量ではなく、ものごとの多さのたとえです)。
 戒を守らない人にお布施して 受けとる功徳は、1000 (sahassaguṇā) の功徳があると思ってください。
 戒を守る人にお布施して 受けとる功徳は、100000(satasahassaguṇā)の功徳があると思ってください。
 愛欲のない修行者にお布施して受けとる功徳は、1億×1000 (koṭisatasahassaguṇā) の功徳があると思ってください。
 預流道にお布施して受けとる功徳は、限りがないと思ってください。
 これより上の方々にお布施して受けとる功徳は、この上ない功徳になると思ってください。

以上引用終わり。


○前回の「この詩から学ぶこと」

儀礼では功徳はないぞ聖者を敬い正道学べ
http://76263383.at.webry.info/200903/article_18.html


○パーリ語原文

108.
ヤン    キンチ  イッタン   ワ フタン     ワ   ローケー
Yaṃ     kiñci    yiṭṭhaṃ   va  hutaṃ     va    loke,
所のもの 何であれ 祭られた 又は 供犠された 又は 世に
サンワッチャラン ヤジェータ プンニャペッコー
saṃvaccharaṃ   yajetha    puññapekkho;
一年間       祭るとして  功徳を望む者
サッバンピ     タン ナ   チャトゥバーガメーティ
Sabbampi      taṃ  na    catubhāgameti,
すべてといえども その ない 四分の一に至ら
アビワーダナー ウッジュガテース セッヨー
abhivādanā     ujjugatesu      seyyo.
礼拝が     正行の人への    より優る


○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。関係者のみなさま大変ありがとうございます。尚、このまとめは現在ネット上にはアップされておりません。広く皆様にも活用できますように、ネット上に掲載して頂けるようにお願いしております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)


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この記事へのコメント

2010年01月24日 03:07
ワンギーサさん、おはようございます。スダンマ長老様、ご法話有難うございます。物凄~くためになりました。今後は「困った時はダンマパダ」とともに「法」について勉強させて頂こうかと思います。お布施は「清らかな心」で行うもの。私の場合、お布施のあと「それが気になる場合と気にならない場合」とがありました。こうして「経典」をもとに法話を読むと、「なるほどそういうことだったのか!」と頭が整理整頓されます。理解が深まりました。これは私見ですが、「やるべきことをしっかりやったらならば、その先のことは考えない」ということに通ずるように思います。やるべきことは、自分の身、口、意の行為に気を付けること。「自分の管轄外のこと」「他人のやってること」については、それについて一々「考える」ことさえよくない。のだと自分なりに理解してます。それは大抵の場合、大きなお世話になるなのでしょう。「正しいお布施」が理解できたなら、あとはそれを正しく実践していく。このように、ひとつひとつ「課題」をクリアしていきたいと思います。有難うございました。
あっきん
2010年01月24日 08:07
おはようございます。
厄除けに行った時の心境を思い出しました。
「厄年になると統計的に災難が起こるそうだよ」と人の言う事をうのみにしたし、自分が大切だから。でも今考えると、病気1つにしても個人差があり、一概には言えないと思いました。これは物事の考え方いろいろあるけど自己満足の思考。反して八正道の真理の思考の正思惟に当たると思ったのです。どの思考を選ぶかは選択の自由だしその結果は自己が受け取る訳ですね。
お釈迦様ありがとうございました。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
amantbonus
2010年01月24日 15:44
なぜ、般若心経で求められる無自我と、幸福あるいは永遠性や報酬への要求が一致するのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/amantbonus/
ワンギーサ
2010年01月24日 20:20
amantbonus さんへ。
コメントはありがたいのですが、なぜここで、そのような御質問をされるのか意図がわからないのでお答えしにくいところがあります。
また、「般若心経で求められる無自我」、般若心経では無自我を求めていますか?
「幸福あるいは永遠性や報酬への要求が一致するのでしょうか。」この意味が分かりません。
という訳でお答えできません。
トム
2010年01月24日 20:22
こんばわ。「他人のやっていること」を「自分だったらこうする・・しかし、違うんだ」と考えたくなりますね。そして心の中で少し腹を立てていしまう。今日はそうでした。・・・もしかして、思考は妄想かもしれない・・・よく言われていますが・・・私は自覚がない。全ての思考を止める実験をしてみても面白いかもしれないですね。そうしたらどうなるんでしょう?
ワンギーサ
2010年01月24日 20:26
新さん、あっきんさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
三宝のご加護がありますように。
幸せでありますように。
ワンギーサ
2010年01月24日 20:35
トムさん、こんばんは。
瞑想はすべての思考を止める実践です。
思考を止めて、正しく観察すれば、智慧が現れると私は思っています。トムさん、すべての思考を止める実験をしてみてください。その結果を是非教えて下さい。
amantbonus
2010年01月26日 22:39
石像や木像と同じようになるだけですね。自我・言語は身体への意味定置によって身体を虚構化して出来上がるのですから。

般若心経の「無自我」は、石像や木造の状態のことです。だから、それらが崇められるのですな。

しかし、人間の喜怒哀楽は永遠と死の要求に起因し、多義性を一とすることによって起こる笑いや、生理機能ではない涙などは、身体を言語によって用いることによって生じます。

愛とはある主題への意識ですが、そんなものは石像や木像にはありません。

つまるところ、誰かを愛して喜びながら、つまり本質として永遠の愛を誰かに捧げながら、石像や木像のようになれとは、愛に対する侮辱でしかないと思うのですがね。

自己の肉体しか自らの言語を持たない動物の方がまだ、「ことば」としての自らを捨ててません。
ワンギーサ
2010年01月26日 23:52
amantbonusさん、コメントありがとうございます。
amantbonusさんの後のコメントはトムさんのコメントへの答えなんですよね。瞑想をしないで、瞑想はどんなものか、考えてただけではわかりません。amantbonusさんが、先入観なしに、瞑想をして何かを感じて見てください。何か得ることがありますよ。少なくとも心は落ち着きます。いろいろなストレスもなくなります。そしてやさしい気持ちになりますよ。
 なお、amantbonusさんのブログを拝見させていただきました。難しいですね。
こころざし
2015年08月10日 07:52
お布施を心よりさせて頂きたいと思います。
また、日常で御釈迦様の教えを紹介出来るような機会がある時があります。その時に法施として心を込めて紹介させて頂こうと、実践中です。
お布施をさせて頂く事の大切さ・幸いさを多くの方が理解されると良いなと思います。
たか坊
2016年11月04日 01:04
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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