109.丁寧な挨拶が習慣となり、常に年長者を敬うこと

ダンマパダ 第8 千の章 109

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマー サンブダッサ
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


つねに敬礼の習いあり
長上の者を尊ぶならば
寿命・容色・楽・力の
四種の法が増大する


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

丁寧な挨拶が習慣となり
常に年長者を敬うことで
四つのことが増える
寿命と美貌と幸福と力


○子供のためのダンマパダ

丁寧な挨拶ができること
お年寄りを敬うこと
そうすると、長生きできて、美しくなり、
幸福になり、パワーアップするよ





○一口メモ

 中村元博士著 岩波文庫「真理のことば」の訳注(p95)には、これと同様な詩がバラモン教にあり、四つのことがらが増大するとなっているが、その内容が「名誉と長寿と名声と力」であると述べられています。釈尊は当時のインドで人口に膾炙(かいしゃ)していた言葉を、仏教的に正しく言い換えたのだと思います。

 ではなぜ、「丁寧な挨拶が習慣となり、常に年長者を敬うことで」「寿命と美貌と幸福と力」が増大するのでしょうか?

 私の解釈を述べる前に、片山先生の訳では、「敬礼」としてある言葉はパーリ語ではアビワーダナです。辞書には敬礼という訳の他、「丁寧な挨拶」という訳もあるのです。私はここでは「丁寧な挨拶」として説明します。

 「丁寧な挨拶」は、人間関係を良好に保つのに大変大切なことです。それは言うまでもないことですが、挨拶をしなかったらどうなるでしょう。結構非難されるし、どうなるかわかりません。挨拶だけはしておくべきです。ただ挨拶はすればよいというのではなく、どうせ挨拶をするならば、丁寧な挨拶をした方がよいでしょう。丁寧ということはいろいろな場面で大切です。丁寧に行えば上手くいくことが多いのです。丁寧に行うためには、注意深さが必要で、仏教でいう念(サティ)があるのだと思います。丁寧な行いを見ると、行う人の落ち着いた心の状態も感じられます。同じ挨拶でも、丁寧な挨拶には、その人の真心させ感じさせるものです。真心のない丁寧さもありますが、それは相手に見破られます。

 年長者は実際の年齢ではなく、先輩の意味なのだと思います。サンガ(僧団)では先に出家した人が先輩です。年齢は関係ありません。片山先生はそのへんを意識してか「長上の者」と訳されています。年齢だけは取っていても、無知で不道徳な老人を敬うわけにはいきません。年長者は年長者なりの責任があるのです。先輩は文化の伝承者で功労者ですから、その方々を敬うといことも当然のことです。

 以上述べたように「丁寧な挨拶が習慣となり、常に年長者を敬うこと」は人間関係を良好に保つ上で必要なことです。生命は一人では生きていけません。生命のネットワークの中で生きて行けるのです。人間も他の生命のネットワークの中で生きているわけですが、そのなかの人間関係については、特別に注意が必要なのです。それが丁寧な挨拶と年長者を敬うことです。

 人間関係が上手く行くと、ストレスがなくなり、病気をしないようになり、寿命が伸びます。日々の生活に満足できるようになります。満足している人の容貌は美しいものです。健康で満足している人は幸福です。そのよう人には存在感があり、力のオーラを感じさせるのです。お釈迦さまはそれ以上のことを述べておられるのでしょうが、以上が私の解釈です。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

「祈り」より正しい人間関係 ~和を守る行動も仏教の道徳です ~
http://www.j-theravada.net/howa/howa39.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

挨拶と敬老心で徳増える寿命と美貌 幸と力だ
http://76263383.at.webry.info/200903/article_19.html


○パーリ語原文

109.
アビワーダナスィーリッサ
Abhivādanasīlissa,
丁寧な挨拶を 習慣している
ニッチャン ワッダーパチャーイノー
niccaṃ    vaddhāpacāyino;
常に     
チャッターロー ダンマー  ワッダンティ
Cattāro       dhammā  vaḍḍhanti,
アーユ ワンノー スカン  バラン
āyu    vaṇṇo   sukhaṃ  balaṃ.

○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。関係者のみなさま大変ありがとうございます。尚、このまとめは現在ネット上にはアップされておりません。広く皆様にも活用できますように、ネット上に掲載して頂けるようにお願いしております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)


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この記事へのコメント

名古屋人
2010年01月24日 22:25
敬礼を受ける人は、長上としての責任を持って下の者を指導していただかなくてはいけません。俗世では、上にとって都合のいい時だけ、長幼の序を教条的に押しつけてきますから、上に立つ人間がふんぞり返って下の者をこき使うといったことが往々にしてあります。これでは、たまったものではありません。相撲の世界では、「無理偏にゲンコツと書いて兄弟子と読ませる」と言いますが。こういうことを、一般の職場などで行う輩がいるから始末に負えません。
誰に対して頭を下げればいいのか判断するには、やはり智慧がないと解かりませんね。
ワンギーサ
2010年01月24日 22:46
名古屋人さん、コメントありがとうございます。
この詩の裏に智慧の教えがあったことに気づかされました。
改めて、お礼申し上げます。
2010年01月25日 05:17
ワンギーサさん、おはようございます。年長者についてはとても微妙な問題だと考えております。あまりに自分勝手では生きていけませんから。私の知ってるご高齢の方のことをよくよく考えてみると、それなりの方であることが分かったりします。ある方は人の面倒みがよかったり、ある方は親子関係が良好だったり、又ある方は贅沢を望まず質素に生活されてます。つまり、長生きしてるということは、現実の様々なトラブルをクリアし、自分の関係する社会でしっかり生きてきたという証拠だと考えてます。「なぜこの人は80を過ぎてもこんなに元気に頑張っているのだろう?」ということで見えてくるものもがあるように思います。今のところ、「実際長生きされてる方には一目置く」というスタンスでやってます。その道の先輩については全く同感です。年齢は無関係だと思います。一番問題なのは、このまま生き続けた場合「自分が本当に尊敬されるに値する人格者になってるか否か」だと考えてます。そのためには、仏教を実践する以外ありません。真心のこもった「挨拶」についての自己評価は「失格」ですので、実践して克服すべき課題なのです(^_^;)。有難うございました。
たか坊
2016年11月05日 03:19
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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