119.120.悪が熟したときは悪人はもろもろの悪を見る

ダンマパダ 第9 悪の章 119、120

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマー サンブダッサ
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


悪がいまだ熟さぬうちは
悪人さえも善を見る
しかし悪が熟したときは
悪人はもろもろの悪を見る

善がいまだ熟さぬうちは
善人さえも悪を見る
しかし善が熟したときは
善人はもろもろの善を見る


(片山一良先生 訳)

○超訳の試み

悪いことをして
悪い結果が現れなくとも
安心するのはまだ早い
必ず悪い結果が現れる

善いことをして
善い結果が現れなくとも
がっかりするのはまだ早い
必ず善い結果が現れる


○子供のためのダンマパダ

生き物を殺したり
友達をいじめたりすると
君の心は暗くなり
良いことはやってこない

生き物をかわいがり
友達と仲良くすると
君の心は明るくなって
良いことがやってくるよ





○一言メモ

 この詩は「縁起の法則」を理解する難しさを述べたものです。この法則の基本は、善いことをすれば善い結果が現れ、悪いことをすれば悪い結果が現れるというものです。しかし、実際は条件や要因は多数あり、簡単には解明できないのです。ですから、人間はこの法則を理解しないのです。そのため人間はいいかげん、めちゃくちゃな生き方をするということになるのです。

 この詩の「悪がいまだ熟さぬうちは」あるいは「善がいまだ熟さぬうちは」で使われている「熟さ」はパーリ語でパッチャティですが、単語の元の意味は「煮られる、料理される、焙られる」という意味です。「縁起の法則」の説明するためには、料理を例として考えると少し分かるのです。料理を作る時はいろいろな材料を使います。更にいろいろな調味料を使います。また、火加減や水加減などいろいろな調整が必要です。

 例えば、砂糖(善いことの例)や塩(悪いことの例)として考えましょう。砂糖を少し入れてもあまり甘くならないかもしれません。塩を少し加えてもあまり塩辛くならないかもしれません。しかし、煮たり、蒸したりして行くうちに、塩や砂糖の味が利いてきたりします。そのように、人生において私たちはいろいろな行為をしていますし、前世でもいろいろな行為をしていたのです。ですからその結果がすぐに現れないかもしれません。しかし、言えることは、塩を入れすぎると料理は辛くなるし、砂糖を入れすぎると甘くなるのです。そのことを忘れない必要があります。行った行為の結果を甘く見ない方がいいのです。その結果はいずれ現れます。

 スマナサーラ長老は「人類の本質は過ちを犯すこと」というところから、この問題を解き明かしていますので、そちらも是非お読み下さい。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

「目先の楽しみは、後の落とし穴」 ~人類の本質は過ちを犯すこと~
http://www.j-theravada.net/howa/howa46.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

悪行は結果なくとも心配だ悪行熟せば不幸のどん底
http://76263383.at.webry.info/200903/article_24.html


○パーリ語原文

119.
パーポピ パッサティ バドゥラン
Pāpopi   passati    bhadraṃ,
悪もまた  見る    幸せを
ヤーワ パーパン ナ パッチャティ
yāva   pāpaṃ   na   paccati;
まで   悪が   ない  熟さ
ヤダー チャ  パッチャティ パーパン
Yadā   ca    paccati     pāpaṃ,
その時 しかし 熟した      悪が
アタ   パーポー パーパーニ パッサティ
atha    pāpo     pāpāni     passati.
その時  悪人は  不幸を     見る

120.
バドゥローピ パッサティ パーパン
Bhadropi    passati    pāpaṃ,
善人も     見る     不幸を
ヤーワ バドゥラン ナ パッチャティ
yāva   bhadraṃ  na   paccati;
まで   善が   ない  熟さ
ヤダー チャ パッチャティ バドゥラン
Yadā   ca    paccati     bhadraṃ,
その時 しかし 熟した     善が 
アタ   バドゥロー バドゥラーニ パッサティ
atha    bhadro    bhadrāni    passati.
その時  善人は   幸せを    見る


○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)


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この記事へのコメント

2010年02月01日 03:01
ワンギーサさん、おはようございます。「純粋な善行為の結果がでるまでの時間」というテーマだと私には難しいです。ちょっと脱線ですが、「なぜ善行為をしても悪と遭遇するのか」を違う観点から考えてみたいと思います。期待する善果を「何があっても怒らない心」とすると、「怒る」「怒っていい」という原因では到底無理です。だから、「不貪不瞋不痴」の心に挑戦します。しかし、心は「貪瞋痴」の癖がついているので最初は「不貪不瞋不痴」対「貪瞋痴」の割合は「0対1000」。それが努力で「1対999」になる。更なる努力で「1対100、10。そして1対1」になりやがて「不貪不瞋不痴」の%が増えていく。つまり最初はどうしても「悪行為」が圧倒的に多いので期待する結果は現れない。それを「善因善果などない」と誤解して判断してしまう。「やはり怒るのは仕方ない」と結論づけてしまう。だから、まずは純度の高い「不貪不瞋不痴」の心でで生きることにチャレンジします。有難うございました。
1951男
2010年02月01日 11:58
passatiパッサティではなくpaccatiパッチャティについてのご説明でしょう。
ワンギーサ
2010年02月01日 13:34
1951男さん、ご指摘ありがとうございました。
その通りです。本文を訂正しておきます。
たか坊
2016年11月20日 22:37
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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